岩尾城 (肥後国)
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岩尾城 (熊本県) | |
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岩尾城本丸跡 | |
別名 | 矢部城 |
城郭構造 | 山城 |
築城主 | 阿蘇氏 |
築城年 | 中世 |
主な城主 | 阿蘇氏、小西氏、加藤氏 |
廃城年 | 慶長17年(1612年) |
遺構 | 土塁 |
指定文化財 | 町指定史跡 |
位置 | 北緯32度41分02.2秒 東経130度59分34.6秒 / 北緯32.683944度 東経130.992944度座標: 北緯32度41分02.2秒 東経130度59分34.6秒 / 北緯32.683944度 東経130.992944度 |
地図 |
岩尾城(いわおじょう)は、熊本県上益城郡山都町にあった中世の日本の城(山城)。山都町指定史跡。
立地・構造
[編集]熊本県上益城郡山都町の、城原字本丸および二の丸に位置する。城地は標高482mの尾根の南西端にあり、北・西・南は轟川に囲まれる。西端の最高所が本丸で、周辺斜面には同心円状の曲輪があった。その南側にある長円状の平坦地が二の丸、北東の尾根を削平した面が三の丸と呼ばれる。三の丸東側の堀切を挟み、土塁が残る。
歴史
[編集]築城年代は明らかではないが、浜の館で非常事態がおきた場合に備えて阿蘇惟忠が築いたとされる。天文21年(1552年)には火事があった事が記録されている。天正年間には甲斐氏が、小西氏の領土となった後は結城弥平次や大田市兵衛が城代を務めた。関ヶ原の戦いの後、加藤清正が領主となって慶長6年(1601年)に長尾善政を城代にした。善政の死後に入った加藤正直は慶長17年(1612年)に内牧城に移り、岩尾城は廃城となった。ただし、長尾・加藤は近くの愛藤寺城(矢部城)城代を兼帯していたとされ(『肥後古城考』など)[1]、また加藤家の文書では関ヶ原の戦い後に支城を整理した際に残された城は愛藤寺城を含めた7城である[2]ため、実際に加藤家統治時代に城代がいて機能していたのも岩尾城ではなく愛藤寺城であった可能性が高い。
脚注
[編集]- ^ 日本歴史地名大系44 『熊本県の地名』 平凡社、1985年、「岩尾城跡」(P592)及び「愛藤寺城跡」(P597)
- ^ 上髙原聡「加藤領肥後一国統治期の支城体制について -一国二城体制の考察-」(初出:『熊本史学』92号(2010年)/所収:山田貴司 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正』(戒光祥出版、2014年)ISBN 978-4-86403-139-4)
参考文献
[編集]- 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典(43.熊本県)』、角川書店、1987年
関連項目
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