岡部吉正
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正元年(1573年) |
死没 | 正保4年8月25日(1647年9月23日) |
改名 | 忠正、吉正 |
別名 | 小次郎、小右衛門 |
戒名 | 寿泉 |
墓所 | 長光寺(埼玉県飯能市) |
幕府 | 江戸幕府旗本 |
主君 | 松田憲秀、徳川家康、秀忠、家光 |
氏族 | 小野氏流岡部氏 |
父母 | 岡部忠吉、藤橋越前守の娘 |
兄弟 | 吉正、忠房、正次、久左衛門、武秀繁の妻、女子、酒依昌吉の妻 |
妻 | 土屋昌吉の娘 |
子 | 吉次 |
岡部 吉正(おかべ よしまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将、江戸幕府旗本。
生涯
[編集]治承・寿永の乱で活躍した武将岡部忠澄の末裔。岡部氏ははじめ鎌倉公方に、次いで扇谷上杉氏に従ったが、その没落後は後北条氏の重臣である松田氏に仕えた。
父と共に北条氏政・氏直の家老であった松田憲秀に仕える。天正18年(1590年)小田原征伐の際、憲秀が豊臣軍に内通して小田原城内に囚われると、密かに主の下へと駆けつけた。小田原落城後、結局憲秀は自害を命じられたが、吉正はその介錯を務めた後、高野山へと登った。文禄2年(1593年)憲秀自害の顛末を知りたがった徳川家康に召され、板部岡江雪斎の仲介で肥前国名護屋城へ出頭し、以後は家康に仕えた。家康の関東帰国後は武蔵国都筑郡に200石を賜った。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い、慶長19年(1614年)大坂冬の陣にも従軍。慶長20年(1615年)大坂夏の陣では真田信繁隊と戦った。寛永10年(1633年)加増されて併せて1500石を領した。正保4年(1647年)に没したが、跡は甥(妹の子)にあたる吉次が継いだ。
出典
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第597