岡本忠
岡本 忠(おかもと すなお、1894年9月1日 - 1955年9月2日)は、日本の実業家。学生時代よりテニス選手として活躍し、デビスカップやオリンピックに日本代表として出場した。
経歴
[編集]岡山県赤磐郡瀬戸町大字瀬戸(現在の岡山市東区)生まれ[1]。津山中学校(現・岡山県立津山中学校・高等学校)を経て、東京高等商業学校(現在の一橋大学)に入学[1]。学生時代からテニス選手として活躍した[1]。
1917年(大正6年)、東京高等商業学校を卒業し[2]、三井物産に入社した[3]:27。
テニス選手として
[編集]1921年(大正10年)、清水善造・鳥羽貞三と共に、皇居内コートでの初の「御前試合」に参加[3]:27。
1924年パリオリンピックでは、日本代表選手4人のうちの1人で、男子シングルス (singles) と男子ダブルス (doubles) で出場。岡本は当時三井物産の社員で[4]インドに駐在していた[5]。なお、三井物産からは本田朝次もパリオリンピックのテニス競技に参加している。シングルスでは1回戦を突破したが、2回戦でヤン・コジェルフに敗れた。原田武一と組んだダブルスでは、Bjørn Thalbitzer・Einar Bache組に1ゲームを失ったものの勝利。2回戦でスペインのアロンソ兄弟(ホセ・マリア・アロンソとマニュエル・アロンソ)に4セットを奪われた[6]。
1924年ウィンブルドン選手権にはシングルスとダブルスに出場。シングルスでは1回戦でルネ・ラコステに4セット負け。ダブルスでは邱飛海(Khoo, Hooi-Hye)と組み、3回戦に進出したが、最終的にはフランシス・ハンターとビンセント・リチャーズのペアに敗れた[7]
財界人として
[編集]岡本はのちに第一通商社長となる[8]。1951年度には経済同友会通商部会部会長を務めた[9][10]。訃報を伝える米国紙によれば「大蔵省のアドバイザー」を務めたという[8]。
脚注
[編集]- ^ a b c “赤磐出身の岡本忠(すなお)という人物の経歴を知りたい。”. レファレンス協同データベース. 2021年8月21日閲覧。
- ^ “庭球部の歴史”. 一橋大学庭球部. 2021年8月21日閲覧。
- ^ a b “三井テニスの歴史(2006年 全三井・全三菱テニス大会50年史より)”. 三菱の庭球. 三菱庭球同好会. 2022年6月8日閲覧。
- ^ 束原 2013, 258頁.
- ^ “第1回全日本選手権開催、国際庭球連盟に加盟”. 日本テニス協会. 2021年8月21日閲覧。[リンク切れ]
- ^ “Olympic Sports – Athletes – Sunao Okamoto”. sports-reference.com. 2020年4月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月21日閲覧。
- ^ “Wimbledon players archive – Sunao Okamoto”. AELTC. 2021年8月21日閲覧。
- ^ a b "AP: Sunao Okamoto died today" (Press release). Kansas City Star. 2 September 1955.
- ^ 年度別役員・委員会委員長:986
- ^ (社)経済同友会『経済同友会50年のあゆみ : 資料集』(1997.04) - 渋沢社史データベース
参考文献
[編集]- 束原文郎「1912年〜2008年夏季オリンピック日本代表選手団に関する資料:所属組織と最終学歴を中心に」『スポーツ科学研究』第10巻、2013年、242-316頁。