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山村良道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
山村良道
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
死没 永正12年(1515年)
別名 左衛門尉
戒名 功岩院殿信叟受榮大居士
幕府 室町幕府
主君 木曾義元
氏族 山村氏
良利
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山村 良道(やまむら よしみち)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。信濃国の国衆・木曾義元の重臣。木曾山村氏の初代。

生涯

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良道は、宇多源氏佐々木氏の支流または、大江氏の末裔とされ、近江国山村郷[1]の出身で、はじめは室町幕府に仕えたが、室町幕府が衰えてきたので任を辞して諸国を遍歴し、木曽谷に来た時に木曾義元と知り合った。

義昌は良道の人柄を気に入って、木曾に留まって自分に仕えるように言ったが、すぐに決断することができなかった。

『西筑摩郡誌』によると、永正元年(1504年)、飛騨国司・姉小路済継の命を受けた三木重頼配下の大熊玄蕃・白谷左馬介らが白巣峠を越えて木曾領の王滝村に攻め入った。木曾義元は王滝城にて飛騨勢を迎え撃ったが敗れ、居城の木曽福島城への退却中に追撃を受け負傷し死去した。

そこで、困った木曾氏を見捨てて他所へ去ることはできず、木曾氏の家臣として残ったという。

『西筑摩郡誌』によると、その後、王滝村に居住していたが、飛騨から侵入して来た兵と戦って没したとあるが、他の諸記録を見る限りその様な記録は見当たらない。

『木曽福島町史』によると、この頃、木曾義元は、大桑村須原の館に住んでいたので良道も須原で暮らしていた。

ある深夜、義元の館を何者かが襲撃したため、良道は戦って傷を負い死亡した。

時に嫡男の良利が2歳(数えの3歳)の時であった。そこで、木曾義在が良利を養育して、娘を娶らせて木曾氏の重臣にしたとされる。

千村家所蔵記録』によると、「良道 依宿意人違に 木曾義在の甥某を闇討に 被致候付 義在忿之則 良道親族誅討 此時良利三歳 舊臣抱蔵之 信州伊那伯母 預之由申出候云々」とある。

また忌日については、子孫の山村良啓が、長福寺で良道の二百回忌を行ったときに、住持の梅傳に相談して、永正12年(1515年)とした。

その理由は、良道の子の良利は、慶長4年(1599年)に86歳で没していることから、良利が2歳(数えの3歳)の時に亡くなったとすると、永正12年(1515年)となるからである。

良道の墓は残っておらず、長福寺に位牌のみがある。

脚注

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出典

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  1. ^ 滋賀県甲賀郡水口町山に山村神社がある。

参考文献

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  • 堀田正敦 編「国立国会図書館デジタルコレクション 第627」『寛政重修諸家譜』https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577441/84 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 『武田氏家臣団人名辞典』「山村良利」 柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編 東京堂出版、2015年
  • 『木曽福島町史 第1巻 (歴史編)』 第五章 江戸時代 第一節 山村氏 ニ、遠祖 良道 p198~p199 木曽福島町教育委員会 1982年
  • 『西筑摩郡誌』 ニ〇、山村三河守義利 p567~p568 長野県西筑摩郡役所 1915年