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山本金次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

山本 金次郎(やまもと きんじろう、生年不明[1] - 元治元年(1864年[2])は江戸幕府幕臣、浦賀奉行所の同心。海軍軍人山本安次郎の父[3]

略歴

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安政2年(1855年)、伝習生の一期生として長崎海軍伝習所へ派遣される[4]勝海舟が編纂した『海軍歴史』には伝習生が学ぶべき科目が個人別に記載されており、山本が習得すべきとされた科目は「帆や縄の結び方」で[5]、「帆縫方(セール・メーカー)[6]」要員の職方下士官として伝習を受ける[7]。しかし、後に機関科に転科して勉強に励む[8]

安政4年(1857年)3月4日、軍艦観光丸の機関士として長崎の海軍伝習所から江戸へ回航[9]。同年5月8日、浦賀奉行所の同僚であった佐々倉桐太郎浜口興右衛門岩田平作たちとともに軍艦操練所で機関科の初代教授に就任する(『海軍歴史』[10])。

万延元年(1860年)、日米修好通商条約の批准書交換のために派遣された咸臨丸に、蒸気方(蒸汽方)として乗船してアメリカに渡る[11]

文久3年(1863年)正月5日、将軍徳川家茂が海路で上洛することになったことを受けて[12]与力中島三郎助たちとともに上洛御用掛に任命され、同月23日には諸組与力格軍艦組出役を命じられる(『新訂臼井家文書』四[13])。

元治元年(1864年)に死去。

山本の死後、次男の安次郎が連合艦隊機関長や海軍機関中将などを歴任している[14]

脚注

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  1. ^ 1826年、または1827年という記録もある(『日本人物レファレンス事典 江戸時代の武士篇』)。
  2. ^ 『日本人物レファレンス事典 江戸時代の武士篇』日外アソシエーツ、1105頁。
  3. ^ 人事興信録 3版(明44.4刊)く之部―す之部』人事興信所、1911年4月、や150頁。doi:10.11501/779813https://dl.ndl.go.jp/pid/779813/1/123 
  4. ^ 「与力や同心の長崎派遣」西川武臣著 『浦賀奉行所』 有隣新書、161-163頁。「伝習生の選定」神谷大介著 『幕末の海軍 明治維新への航跡』 吉川弘文館、49-52頁。
  5. ^ 「与力や同心の長崎派遣」西川武臣著 『浦賀奉行所』 有隣新書、161-163頁。
  6. ^ 海戦直後に破損した船体・帆・艤装・索具類の応急修理をする特殊技能者。
  7. ^ 藤井哲博著 『長崎海軍伝習所 十九世紀東西文化の接点』 中公新書、15頁。
  8. ^ 「一期生の卒業・帰府」藤井哲博著 『長崎海軍伝習所 十九世紀東西文化の接点』 中公新書、75-76頁。
  9. ^ 「築地軍艦操練所の開設」神谷大介著 『幕末の海軍 明治維新への航跡』 吉川弘文館、55-57頁。「一期生の卒業・帰府」藤井哲博著 『長崎海軍伝習所 十九世紀東西文化の接点』 中公新書、75-76頁。
  10. ^ 「与力や同心の長崎派遣」西川武臣著 『浦賀奉行所』 有隣新書、172頁。「築地軍艦操練所の開設」神谷大介著 『幕末の海軍 明治維新への航跡』 吉川弘文館、55-57頁。「一期生の卒業・帰府」藤井哲博著 『長崎海軍伝習所 十九世紀東西文化の接点』 中公新書、75-76頁。
  11. ^ 西川武臣著 『浦賀奉行所』 有隣新書、182-183頁。神谷大介著 『幕末の海軍 明治維新への航跡』 吉川弘文館、69-70頁。尾佐竹猛著 『幕末遣外使節物語 夷狄の国へ』 岩波文庫、20頁。宮永孝著 『万延元年の遣米使節団』 講談社学術文庫、305頁。藤井哲博著 『長崎海軍伝習所 十九世紀東西文化の接点』 中公新書、119頁。
  12. ^ ただし、この時の上洛は、海路から陸路に変更されている(上洛#将軍家茂の上洛参照)。
  13. ^ 「幕府海軍との連携」神谷大介著 『幕末の海軍 明治維新への航跡』 吉川弘文館、108-109頁。
  14. ^ 西川武臣著 『浦賀奉行所』 有隣新書、222頁。

参考文献

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