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山本藤助 (2代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2代 山本 藤助(やまもと とうすけ、1874年明治7年)6月1日[1][2][3][4] - 1926年大正15年)8月16日[3][4][注釈 1])は、明治から大正期の実業家政治家衆議院議員。旧姓・山田。初代山本藤助の娘婿。

経歴

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鳥取県邑美郡鳥取町寺町(現鳥取市[5]寺町[6])で、旧鳥取藩[7]・山田頼実の長男として生まれる[1][2][6]。修徳小学校(現・鳥取市立修立小学校)、育英高等小学校を卒業後[6]、京都府商業学校(現・京都市立西京高等学校)に進み[6]、1895年(明治28年)に卒業した[3][4][5][8]

同年、帝国海上保険会社(現・損害保険ジャパン)に入社[3][4][5][6][8]。1907年(明治40年)6月[注釈 2]、鉄鋼商・海運業を経営した初代山本藤助の未亡人に懇願され、その長女・山本としの入夫となり[1][6]、2代藤助を襲名した[1][2][3][4][6]。家業を発展させ、大阪商業会議所常議員、日本海員掖済会常議員、山本汽船代表取締役、大阪製鉄取締役、南洋製糖取締役、東印度貿易取締役、日本簡易火災保険取締役、実用自動車製造取締役などを務めた[2][3][5][8]

政界では、大阪市会議員に選出され、同参事会員も務めた[3][4][5][6][8]。1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙に鳥取県第1区から無所属で出馬して当選[9]庚申倶楽部に所属し、衆議院議員を1期務めた[3][4][5][8]。この間、千代川改修工事の請願採択に尽力した[6]

1916年(大正5年)私財を投じて帝塚山学院の設立に参画し、常任理事に就任[3][4][6][8]。また、1918年(大正7年)には鳥取高等農業学校(現・鳥取大学農学部)の設立に際して10万円の寄付を行った[6]

親族

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  • 妻 山本とし(先代山本藤助の長女)[1][2]
  • 長男 3代山本藤助(初名・丑之助)[1][2][10]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』694頁では8月15日。
  2. ^ 『鳥取県大百科事典』974頁、『20世紀日本人名事典 そ-わ』2684頁では明治35年。

出典

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  1. ^ a b c d e f 『大阪現代人名辞書』613頁。
  2. ^ a b c d e f 『人事興信録 第4版』や79頁。
  3. ^ a b c d e f g h i 『20世紀日本人名事典 そ-わ』2684頁。
  4. ^ a b c d e f g h 『日本の創業者』369-370頁。
  5. ^ a b c d e f 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』482-483頁。
  6. ^ a b c d e f g h i j k 『鳥取県大百科事典』974頁。
  7. ^ 『鳥取県史 近代 第二巻 政治篇』407頁。
  8. ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』694頁。
  9. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第14回』21頁。
  10. ^ 『人事興信録 第8版』ヤ163-164頁。

参考文献

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  • 『大阪現代人名辞書』文明社、1913年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第14回』衆議院事務局、1924年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
  • 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
  • 『鳥取県史 近代 第二巻 政治篇』鳥取県、1969年。
  • 『鳥取県大百科事典』新日本海新聞社、1984年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『20世紀日本人名事典 そ-わ』日外アソシエーツ、2004年。
  • 『日本の創業者 - 近現代起業家人名事典』日外アソシエーツ、2010年。

関連項目

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