山本文博
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 愛媛県 |
生年月日 | 1955年(68 - 69歳) |
身長 体重 |
170 cm 69 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 内野手 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督歴 | |
この表について
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山本 文博(やまもと ふみひろ、1955年 - )は、愛媛県出身の元アマチュア野球選手(内野手)である。
人物・来歴
[編集]八幡浜高等学校では1972年秋季四国大会県予選決勝に進むが、今治西高の矢野隆司に完封負けを喫する。今治西高とともに秋季四国大会に出場するが、1回戦でエース植上健治を擁する高松商に大敗。翌1973年夏の甲子園県予選は準決勝で西条高に敗退。
駒澤大学に進学。東都大学野球リーグでは在学中6回の優勝を経験、1977年には春秋季リーグ連続で首位打者となり、両季ともベストナイン(二塁手)に選出されてリーグ連続優勝に貢献する。同年の第26回全日本大学野球選手権大会でも優勝を果たし、第6回日米大学野球選手権大会日本代表となった。大学同期にエースの尾藤福繁、三塁手の渡部一治、1年下に遊撃手の石毛宏典がいた。
卒業後は社会人野球の北海道拓殖銀行に入社。1978年の都市対抗に新日本製鐵室蘭に補強され、遊撃手として出場。準々決勝に進むが東芝の黒紙義弘に抑えられ敗退[1]。この大会では若獅子賞を獲得した。同年の社会人野球日本選手権は決勝に進出、東京ガスのエース松沼博久の好投に苦しむが0-1で辛勝、初優勝を飾る[2]。この大会では優秀選手賞を獲得した。同年のアマチュア野球世界選手権日本代表となり、社会人ベストナイン(遊撃手)にも選出される[3]。その後も中心打者として活躍を続け、1987年の都市対抗では10年連続出場選手として表彰を受けた[1]。
現役引退後は室蘭大谷高校、道都大学監督を歴任し、札幌国際大学で監督を務める。