山岸一雄
やまぎし かずお 山岸 一雄 | |
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生誕 |
日本 長野県中野市 |
死没 |
2015年4月1日(80歳没) 日本 東京都 |
死因 | 心不全 |
職業 | 料理人、実業家 |
著名な実績 | つけ麺の発明 |
肩書き | ラーメン店「東池袋大勝軒」創業者 |
配偶者 | 独身(1986年死別) |
山岸 一雄(やまぎし かずお、1934年(昭和9年)4月28日 - 2015年(平成27年)4月1日[1])は、ラーメン店「東池袋大勝軒」を創業した日本の料理人・実業家。
東京都豊島区東池袋にあるラーメン店「東池袋大勝軒」の創業者である[2]。日本におけるつけ麺の普及に広く貢献し「つけ麺の元祖」[3]や「つけ麺の生みの親」[4]「ラーメンの神様」と呼ばれ広く親しまれた。「支那そばや」創業者である佐野実が、ラーメンの世界で唯一尊敬する人物と公言する[5]など、同業者からも一目置かれる存在であった。
経歴
[編集]長野県中野市生まれ。4歳の時に父の勤務先だった神奈川県横須賀市に転居。7歳の時に父が戦死、母の実家のある長野県に戻り、同県下高井郡山ノ内町に移った[6]。父親が日本海軍の職業軍人であったことが影響し、小さい頃は海軍の軍人になるのが夢であった。しかし、終戦によってその夢もなくなり、早く東京に出て働いて家族に仕送りしたいと思うようになった[7]。1950年(昭和25年)中学卒業後上京し、印刷機の部品を作る工場で旋盤を扱う仕事をしていたが、上京から1年位経った頃に、親の従兄弟であり、仲が良く「兄貴」と慕っていた坂口正安に勧められ、1951年(昭和26年)4月、一緒にラーメン屋(修行店)に勤め始める[7]。その後修行店から坂口が独立する際に行動を共にし、『大勝軒』(中野店)を立ち上げた。この店名は「大きく軒並みに勝る」と言う言葉に由来[8]。後に坂口が別の場所に本店(代々木上原店)を構えたことにより、山岸が中野店の店長を任されることになった。その頃、修行店時代から存在し賄食としていた、「湯呑み茶碗にスープと醤油を入れたものに、残ってしまった麺を浸したもの」を食していたところ、それを見ていた客が「今度俺にも食わせてよ」と関心を示した。これが転機となり、試行錯誤しながら研究を行い、常連客に試食させたところ評判が良かったのでメニューの一品として完成させ、1955年「特製もりそば」として供されたものが、商品化された最初のつけ麺といわれ、その考案者とされている[7]。
1961年(昭和36年)6月6日に『東池袋大勝軒』として独立創業(暖簾分け)。「特製もりそば」(つけ麺)を中心に人気を博す店となったが、仕事での無理を重ねたことにより二十代後半から下肢静脈瘤を発症。40歳頃に痛みが限界に達したために手術等の治療を行ったが、この病気が様々な面で後々まで広く影響を及ぼしている[9]。独立創業する前の年である1960年(昭和35年)に結婚した妻が、1986年(昭和61年)夏に病を発症して同年9月30日に52歳で死に至ったことにより[10]、同年8月より7か月休業したが、客の強い要望を受けて復活[11][12]。その後、弟子を取ることに方針を転換して約100人の弟子を持ち、暖簾分けもさせた[12][13]。しかし、2005年には病気が悪化したことで厨房に立てなくなったことに加え、時代の流れと東池袋付近の再開発もあり、2007年3月20日をもって閉店。
そののち2008年1月5日、廃業済みの創業店から約100メートル先の場所に『東池袋大勝軒本店』がオープン。公式サイトではこれをもって東池袋大勝軒「復活」としている[14]。山岸自身の指名で2代目店主として飯野敏彦(滝野川大勝軒、南池袋大勝軒で店主を務めていたが、本店店主就任時にこの2店舗は本店直営店化された)が就いたが、山岸自身もスープの味見と仕上げのために厨房に出向いていた。同店のオープンに際しては開店前から長蛇の列となり、用意した400食は約6時間で完売した。なお、同店オープン準備中であった2007年9月6日に脳出血で病院に搬送され、3週間入院していたことをオープン前日のプレオープンイベントで明かした。
2011年9月に「山岸一雄製麺所」の1号店をエチカ池袋内にオープン[15]。同チェーンはJ-style株式会社が運営し[16]、経営ならびに総合プロデュースは弟子の田代浩二が行っているため山岸一雄名義を使用しているだけであって山岸自身は直接関わっていない。
2015年(平成27年)4月1日、心不全のため東京都内の病院で死去。満80歳没(享年82)[1]。通夜は同月7日に護国寺で営まれ、ラーメン評論家の大崎裕史やタレントの勝俣州和、猫ひろしをはじめ常連客や弟子ら約600人が参列した[17][18][19]。告別式は翌日同所で営まれ、喪主は実妹、葬儀委員長は飯野敏彦が務め、競馬評論家の阿部幸太郎や衆議院議員(当時)の小池百合子、映画監督の印南貴史、弟子ら数百人が最後の別れを告げた[20][21][13]。
人物
[編集]趣味は音楽鑑賞、特にジャズが好みで、オーディオ機器に凝っていたこともある[11]。
著書
[編集]- 『これが俺の味』(あさ出版)ISBN 4860630300
映画
[編集]脚注
[編集]- ^ a b 大勝軒の創業者・山岸一雄さんが死去、80歳 スポーツ報知、2015年4月1日閲覧。[リンク切れ]
- ^ “山岸一雄氏が死去 つけ麺「大勝軒」創業”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2015年4月2日) 2015年4月14日閲覧。
- ^ a b “「つけ麺」考案「大勝軒」創業者、山岸一雄氏死去 映画にも”. 産経ニュース (産業経済新聞社). (2015年4月1日) 2015年4月14日閲覧。
- ^ テレ朝ニュース、2015年4月2日、2015年11月18日閲覧。
- ^ 『オレが唸ったラーメン一杯—ガチンコオヤジ佐野実』008ページ
- ^ 『湯気のむこうの伝説—ラーメン偉人伝』214-215ページより。
- ^ a b c キャリア&転職研究室 『東池袋大勝軒・初代店主 山岸一雄-その1-戦争の終結で消えた最初の夢』 より
- ^ 『湯気のむこうの伝説—ラーメン偉人伝』217ページより。
- ^ キャリア&転職研究室 『東池袋大勝軒・初代店主 山岸一雄-その2-27歳で独立、初の行列店に』 より
- ^ 江畑康二郎 (2015年4月9日). “弟子に残した甘酸っぱい思い出「大勝軒」山岸さん告別式”. スポーツ報知 (報知新聞社) 2015年4月14日閲覧。
- ^ a b キャリア&転職研究室 『東池袋大勝軒・初代店主 山岸一雄-その3-最愛の妻の死 絶望と孤独に耐えたつらい日々 再出発の日、無言でも大行列』 より
- ^ a b 笹本貴子 (2015年4月4日). “おやじさん弔いたい…「大勝軒」に常連客ら続々”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社) 2015年4月14日閲覧。
- ^ a b c “【葬送】妻との思い出の味、後世に…「つけ麺」元祖・山岸一雄氏(8日、東京都文京区の護国寺)”. 産経ニュース (産業経済新聞社): p. 2. (2015年4月9日) 2015年4月14日閲覧。
- ^ “大勝軒とは - 元祖つけ麺 特製もりそば 東池袋大勝軒”. 東池袋大勝軒. 2014年5月28日閲覧。
- ^ 「Echika池袋」大幅刷新へ-イートイン拡充、新業態「山岸一雄製麺所」も - 池袋経済新聞・2011年8月31日
- ^ J-style株式会社
- ^ “大勝軒・山岸さん通夜に600人、50本以上のぼりで“ラーメン葬””. スポニチ Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2015年4月8日) 2015年4月14日閲覧。
- ^ “「大勝軒」山岸さん通夜 のぼり60本参列600人”. スポーツ報知 (報知新聞社). (2015年4月8日) 2015年4月14日閲覧。
- ^ “つけ麺の神・山岸さんの「超舌伝説」”. 東スポWeb (東京スポーツ新聞社). (2015年4月10日) 2015年4月14日閲覧。
- ^ “「大勝軒」山岸さん告別式 小池百合子議員が弔辞”. 東スポWeb (東京スポーツ新聞社). (2015年4月8日) 2015年4月14日閲覧。
- ^ “【葬送】妻との思い出の味、後世に…「つけ麺」元祖・山岸一雄氏(8日、東京都文京区の護国寺)”. 産経ニュース (産業経済新聞社): p. 1. (2015年4月9日) 2015年4月14日閲覧。