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山岡景命

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

山岡 景命(やまおか かげのぶ、弘化2年(1845年) - 大正12年(1923年9月19日)は、滋賀県最初の新聞『滋賀新聞』創刊者の一人[1]

略歴

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山岡景命は、弘化2年(1845年)に近江国膳所中庄(現・滋賀県大津市中庄)の膳所藩士山岡景重の子として生まれ[1][2]、幼児より聡明で工夫改良を行うことが好きだったと伝えられる[1]京都で師事した岩垣月洲の門下には、西川吉輔黒田麹廬杉浦正臣重剛兄弟・川島宇一郎鵜飼退蔵山崎友親大音龍太郎富岡鉄斎富田嘉則河上市蔵浅田徳則永元愿蔵など錚々たる顔ぶれがそろっていた[3]

明治5年(1872年)2月、野洲郡守山村(現滋賀県守山市)の人民共立学校の訓道に招かれ[2]、10月、編集者に着任した『滋賀新聞』は、全国に先駆けて発行された地方紙であった[2]。当時の新聞発行は、京都東京大阪神戸長崎の5都市しか実施しておらず、大津は新聞社を持つ全国6番目の町となり、当初は京都新聞の分社として設立し、後に独立した[1]。元士族を印刷工として雇ったとも伝えられ、新聞名は「淡海新聞」から「滋賀日報」、「淡海日報」から「江越日報」と変遷を重ねる。この間、山岡は社主を引き受けると、県下で最初に新聞に活版印刷を取り入れて、日刊の新聞をつぎつぎと刊行した[2]。山岡の会社は後に滋賀県庁の御用印刷所の役割も担っている[1]

明治15年(1882年)、自由民権運動が盛んになる中大津でも大津自由党が結成され、2月10日に党の第一次会において党規約が決まると、暫定の人事として会長職に山岡景命、常務委員に宇野保太郎・富田毎千代・酒井有が就任した[4]が、政治は国会開設へと向かう中、同年、経営不振により山岡の新聞は廃刊となった[2]

月見山霊園にある山岡家墓所には景命の墓碑も建立されており、大正12年(1923年)9月19日、横浜で没したと刻まれている。

主な著作・編書

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書名は常用漢字に改めた。

  • 山岡景命 編『単語篇図識』滋賀県、1874年。国立国会図書館書誌ID:000000495687 明治7年7月。全3冊(初篇22、2編22、3編9丁)23cm。
  • 山岡景命 編『公用書式文例 : 郡区改正鼇頭注解』立憲書房、1879年。doi:10.11501/786569国立国会図書館書誌ID:000000439727 明治12年11月。120丁 ; 13cm。
  • 山岡景命 編『改正徴兵令俗解』松栢書房、1884年。doi:10.11501/904577国立国会図書館書誌ID:000000524711 明治17年1月。28p ; 20cm。
  • 山岡景命 編『西陣織物沿革提要』三景堂、1891年。doi:10.11501/802764NCID BN15913614国立国会図書館書誌ID:000000452146 明治24年11月。36丁 ; 23cm。
  • 山岡景命『特許取消審判始末 : 定紋織出』山岡景命、1893年。doi:10.11501/1084007国立国会図書館書誌ID:000009253955 私家版。32p ; 20cm。

参考文献

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本文の典拠。主な執筆者、編者の順。

脚注

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  1. ^ a b c d e 1951, p. 49, 湖国の新聞創始者 山岡景命」
  2. ^ a b c d e 『滋賀県百科事典』 1984
  3. ^ 1988, p. 27, 「江州系企業者と準拠集団(1)住友財閥と杉浦重剛」
  4. ^ 大津市 1982, pp. 150, 「§自由民権運動」