山岡景之 (豊前守)
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山岡 景之(やまおか かげゆき、1713年(正徳3年) - 1766年3月14日(明和3年2月4日))は、江戸時代の武士。官途は豊前守。初名は五郎八郎、五郎作。甲賀忍者伴氏の末裔。小普請奉行山岡景久の子。母は曾我助清の娘。妻は今川範高の娘。子に山岡景文がいる。
生涯
[編集]1729年(享保14年)、将軍徳川吉宗に拝謁。1735年(享保20年)、小姓組番士となる。1737年(元文2年)からは進物を管理する役も担当。同年11月、父景久が没すると、その遺跡を継ぐ。
父、景久は将軍が徳川家継から吉宗に代替わりした直後の1717年(享保2年)、松浦信英、渡辺左門と共に、東海や甲信など諸国を巡検する役を賜った。景之も同じく、将軍が徳川家重に代替わりした後の1746年(延享3年)、大久保教平、筑紫通門と共に諸国を巡検、その後父景久同様御使番に転身し、布衣着用を許可される。1756年(宝暦6年)には火付盗賊改に就任、そして2年後に奈良奉行となる。同年、豊前守に叙任される。1766年(明和3年)、奈良で没した。
人物・功績
[編集]幕府からの信頼は篤く、鶴岡八幡宮修築の折は目付役を任され、目付としての役割を首尾よく果たした。1753年(宝暦3年)には黄金7枚を賜ったが、目付役をつとめた功績によるものと推測される。
関連項目
[編集]参考文献
[編集]- 清水昇『江戸の隠密・御庭番』(河出書房新社 ISBN 978-4-309-22516-6)43-44ページ