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山室勇臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
やまむろ ゆうしん

山室 勇臣
生誕 (1917-08-31) 1917年8月31日
日本の旗 日本 東京府
死没 (2016-02-27) 2016年2月27日(98歳没)
出身校 慶應義塾大学経済学部
職業 銀行家
父:山室宗武
母:山室多鶴子(田内三吉長女)
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山室 勇臣(やまむろ ゆうしん、1917年大正6年)8月31日 - 2016年平成28年)2月27日)は、日本銀行家教育者三菱銀行(現・三菱UFJ銀行)副頭取を務めた後、財団法人国際教育振興会理事長、ダイヤモンドリース(現・三菱HCキャピタル)社長・会長・相談役、国際大学第4代理事長[1]

概観

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東京府生まれ。陸軍中将山室宗武の次男[2]

大東亜戦争の勃発した前年の1940年昭和15年)7月、第七回日米学生会議では、宮澤喜一東京帝国大学)、山崎秀之神戸商科大学)、苫米地俊博東京商科大学)の3名と共に日本側学生として参加。総務委員長を務めたが、特高警察が「この国家非常時に、毛唐と一緒に騒ぎ立てるとは何事か」と叱責を受ける[3]

三菱銀行入行以来、八重洲口ニューヨークの各支店長、本店次長を経て調査、国際の両部長を歴任。三菱の国際化戦略を担当。頭取レースを伊夫伎一雄と争い、敗れるとダイヤモンドリースの会長に就いていたが、学校法人国際大学の理事長に就任。役員として任務に当たる。

経歴

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脚注

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  1. ^ 『日経会社人名ファイル』,日本経済新聞社,1991年 - P.757
  2. ^ 『人事興信録 第19版 下』(人事興信所、1957年)や96頁
  3. ^ 『太平洋にかける橋: 日米戦うべからず』,潮書房光人社,1989年 - P.302
  4. ^ “山室勇臣氏が死去 元ダイヤモンドリース会長”. 日本経済新聞. (2016年3月7日). https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG07H44_X00C16A3CZ8000/ 2023年7月15日閲覧。 

関連項目

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登場作品

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先代
苫米地俊博
国際大学理事長
第4代:1991年 - 1995年
次代
杉原泰馬