山内吉佐
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正8年(1580年) |
死没 | 寛永9年1月21日(1632年3月11日) |
別名 | 通称:采女、雅楽、壱岐 |
主君 | 小早川秀秋→山内一豊→忠義 |
藩 | 土佐藩 |
氏族 | 酒井氏→山内氏 |
父母 | 父:酒井吉政 |
妻 | 山内康豊三女・郷 |
子 | 豊吉 |
山内 吉佐(やまうち よしすけ)は、江戸時代前期の土佐藩の家老。
生涯
[編集]天正8年(1580年)、豊臣秀吉の馬廻酒井下総守吉政の子として誕生した。山内(酒井)家の系譜によると、父・吉政は徳川家家臣酒井家次の子と伝えられる。
はじめ、小早川秀秋に3000石で仕えるも、同僚を殺害して退身する。慶長5年(1600年)に山内一豊に中老職として1690石で仕え、浦戸城と山内姓を拝領する。慶長14年(1609年)、山内康豊の三女郷姫を娶る。翌慶長15年(1610年)には長男・豊吉誕生のため、化粧料として100石を賜る。慶長19年(1614年)大坂冬の陣、元和元年(1615年)大坂夏の陣に2代藩主・山内忠義に従って出陣した。秀頼に仕える父・吉政は夏の陣で戦死している。
元和5年(1619年)、福島正則の改易により、藩主・忠義が広島城請取を命じられて安芸広島まで出陣する。同年、大坂城普請の課役を務める。元和7年(1621年)、仕置家老。元和8年(1622年)、功績により500石を加増されて知行2190石。寛永9年(1632年)1月21日没。享年51。
親族
[編集]出典
[編集]- 東京大学史料編纂所「土佐国羣書類従」