山下氏勝
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 - 江戸時代 |
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生誕 | 永禄11年4月6日(1568年5月12日) |
死没 | 承応2年11月20日(1654年1月8日)[1] |
別名 | 萬壽丸、半三郎 |
戒名 | 光遠院道智日賢[1] |
墓所 | 名古屋市千種区平和公園法華寺墓地 |
官位 | 信濃守、豊後守、大和守 |
主君 | 内ヶ島氏理→豊臣秀吉→徳川家康→徳川義直 |
藩 | 尾張藩士 |
氏族 | 山下氏 |
父母 | 父:山下時慶、母:内ヶ島氏 |
妻 | 隆正院[2](志水宗清娘、相応院妹) |
子 | 氏政、権之助、氏紹、秀氏、時氏 |
山下 氏勝(やました うじかつ、1568年 - 1653年)は、江戸時代初期の尾張藩士・幕府役人。幼名に萬壽丸、半三郎[3]。信濃守・豊後守・大和守を名乗る[3]。
人物
[編集]永禄11年(1568年)4月6日、飛騨国大野郡白川郷の荻町城において山下時慶の子として生まれる[3]。始めは血族でもある内ヶ島氏理に仕えたが、天正大地震で内ヶ島氏は滅亡、その後豊臣秀吉に仕え、小田原の役においては先鋒を務め、文禄・慶長の役も名護屋まで随行した[3]。のち徳川家康に仕え、近江国蒲生郡において所領を安堵された[3]。1602年(慶長7年)、徳川家康により徳川義直の傳役に取り立てられる[4]。氏勝の妻は、義直の実母である相応院の妹にあたり、その縁で重用されたとされる[4]。1607年(慶長12年)に、徳川家康に清洲越しを進言した。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 愛知県姓氏歴史人物大辞典編纂委員会 編『角川日本姓氏歴史人名大辞典』 23(愛知県)、角川書店、1991年10月30日。ISBN 4-04-002230-0。
- 田中貢太郎 編『飛騨国大野郡史』 上巻、升重書店、1925年。NDLJP:1020720/459。
- 名古屋市役所 編『名古屋市史』 人物編第一、川瀬書店、1934年5月28日。NDLJP:1145342/134。
- 花見朔巳 編「山下大和守氏勝 -特に諸侯との関係に就いて-」『日本近世史説』日本学術普及会、1926年、215-230頁。NDLJP:1020232/119。