山下梅鶴
時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 文化2年閏8月27日(1805年10月19日) |
死没 | 明治8年(1875年)7月16日 |
改名 | 笹村某、山下正英、定静、弘毅(ひろたけ)、梅鶴[1] |
別名 |
通称:亀次郎、寿登、平八郎[1] 号:渓山、両足軒、百西堂、鳳徳斎[1] |
墓所 | 大手町六丁目明信院 |
主君 | 浅野斉粛、慶熾、長訓、長勲 |
藩 | 広島藩 |
氏族 | 藤原姓笹村氏、山下氏[1] |
父母 | 山下正彦、三田村貞清女愛子 |
兄弟 | 異母兄:正時 |
妻 | 千田氏之女勇子 |
子 | 山下豊穂、小鷹狩元凱 |
山下 梅鶴(やました ばいかく)は幕末の広島藩士。代官主席、宮島奉行。
経歴
[編集]文化2年閏8月27日(1805年10月19日)、安芸国広島城下鉄砲町(現:広島市中区基町)に笹村正彦の次男として生まれた[1]。父は後に旧姓山下に復した[1]。
藩校学問所(現:修道中学校・高等学校)に学問を学び、奥氏に自由斎流砲術を学んだ[2]。ゲベール銃に触れて西洋技術の優位性を認め、嘉永2年(1849年)種痘が伝来すると、いち早く11月子供に藩医三宅養春から種痘を受けさせるなど、進取的な思想を持った[2]。また、大藤一泉に二条派和歌を学んだ[2]。
天保11年(1840年)4月18日父が致仕し、7月1日跡目相続して馬廻となり、天保12年(1841年)7月4日大小姓に進んだ[1]。
天保15年(1844年)3月12日参勤交代に伴い江戸へ発ち、弘化2年(1845年)5月帰藩した[1]。
弘化4年(1847年)7月27日代官となり、当初備後国御調郡甲奴郡支配、次いで三次郡恵蘇郡支配、安芸国高田郡高宮郡支配、佐伯郡山県郡支配を歴任した[1]。
嘉永5年(1852年)閏2月17日代官筆頭となり、安芸国賀茂郡支配、安政4年(1857年)閏5月19日備後国奴可郡三上郡支配、安政6年(1859年)7月24日代官主席、郡廻格となり、安芸国沼田郡安芸郡支配[1]。
文久3年(1863年)5月7日宮島奉行となり、30日塔岡の奉行所に着任[1]、大鳥居の改築等を行った[2]。
慶応3年(1867年)6月24日郡廻、勘定奉行格となり、7月広島に戻った[1]。宮島御用向も兼帯し、12月解任された[1]。
明治2年(1869年)版籍奉還により知藩事配下となり、8月24日内務長に就任したが、11月6日人員削減により罷免され、明治3年(1870年)2月11日二男磐次郎に家督を譲った[1]。明治5年(1872年)7月2日戸籍名を梅鶴とした[1]。
明治8年(1875年)7月16日午後3時死去し、18日大手町六丁目明信院に葬られた[1]。
著書
[編集]- 『梅鶴閑話』
- 『梅鶴閑話拾遺』
- 『梅鶴閑話続拾遺』
- 『梅鶴閑話続々拾遺』
- 『碌々雑話』
- 『公余雑記』
- 『蟭螟集』
- 『蟭螟雑記』
親族
[編集]- 父:山下愛蔵正彦[1] - 平野家三男[2]
- 母:愛子 - 三田村左門貞清女[1]
- 異母兄:笹村栄之進正時 - 文化7年(1810年)11月2日没[1]。
- 妹[2]
- 妻:勇子 - 千田千太郎氏之女、文政12年(1829年)3月婚[1]
- 長女:万代 - 夭折[1]
- 二女:寿 - 夭折[1]
- 三女:喜代[1]
- 長男:亀太郎 - 夭折[1]
- 次男:磐次郎、迪徳、豊穂[1]
- 三男:猪三郎 - 20で没[1]
- 四男:兵之助 - 夭折[1]
- 五男:小鷹狩元凱[1]
- 六男、養子:保吉 - 豊穂男[1]。
脚注
[編集]関連項目
[編集]参考文献
[編集]- 小鷹狩元凱『弘洲雨屋虫干集』昭和4年(『元凱十著』弘洲雨屋、昭和5年)