屋代正国
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 永正17年(1520年) |
死没 | 天正10年(1582年)? |
別名 | 政国、義綱、通称:太郎 |
官位 | 左衛門尉、安芸守、越中守 |
主君 | 村上義清→武田信玄 |
氏族 | 屋代氏 |
父母 | 父:屋代正重 |
兄弟 | 正国、室賀満正 |
妻 | 村上義清養女 |
子 |
基綱、屋代秀正正室 養子:正長、秀正[1](室賀満正四男) |
屋代 正国(やしろ まさくに)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。村上氏、甲斐武田氏の家臣。
略歴
[編集]屋代氏は信濃国埴科郡屋代郷を領していた国人で、信濃村上氏の庶流。
永正17年(1520年)、屋代正重の子として誕生。村上義清の重臣として武田信玄の信濃侵攻に対抗し、天文17年(1548年)の上田原の戦いでは嫡男・基綱を喪う。
天文22年(1553年)に村上氏から離反して4月5日に武田氏に降伏、塩崎六郎次郎と共にその家臣となった。屋代氏の離反は村上氏に相当影響したらしく、離反の数日後である9日に村上義清は葛尾城を放棄している[2]。武田氏からは当初雨宮(現・千曲市)を宛がわれたが、8月8日に雨宮の替地として新砥(同前)及び雨宮のうち大下条・小下条を与えられた。
永禄10年(1567年)には『下之郷起請文』を取次である春日虎綱に提出した。
後継がいなかったため弟・室賀満正の次男・正長を養子に迎えたが、天正3年(1575年)の長篠の戦いで正長は戦死してしまう。その後屋代氏の家督は満正の四男・秀正が継いだ。
没年は武田家が織田信長により滅ぼされた天正10年(1582年)と言われているが、永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いで戦死したとする説もある[要出典]。