尾崎臻
尾崎 臻(おざき いたる、天保12年(1841年)4月[1] - 大正11年(1922年)9月23日[2])は、幕末、明治期の教育者。神職。玄洋社社員[2]。
経歴
[編集]天保12年(1841年)4月、福岡藩士尾崎惣左衛門(朝秀)の長男として、筑前国早良郡鳥飼村(現在の福岡市中央区)に生まれる。始めに亨太郎、弥助、その後逸造と称す。親子二代にわたって勤皇派であり、若くして、父惣左衛門と共に、加藤司書や建部武彦らと時勢を論じ合った[1]。
慶応元年(1865年)福岡藩主黒田長溥による勤皇派への弾圧(乙丑の獄)により、惣左衛門、加藤、建部らと共に捕らえられ、惣左衛門、加藤、建部らが切腹し果てる様を隣の獄窓から見送った[3]。その後、宗像大島に流刑され[4]、明治維新による大赦により釈放となる[1]。
明治元年(1868年)3月、藩校修猷館の指南加勢助となり、指南加勢役を経て、副訓導となる。国学を講じた。明治2年(1869年)6月福岡藩参政局副議事、明治3年(1870年)9月福岡藩奥頭取となる。同年11月臻と改名する[1]。
明治8年(1875年)尾崎が社長となって代言人業(一種の弁護士業務)である一到舎を設立し、同年設立された自由民権運動の政社である矯志社(代表は武部小四郎)、強忍社(代表は越智彦四郎)、堅志社(代表は箱田六輔)に対して指導的立場をとった[4]。
明治22年(1889年)福岡県立尋常中学修猷館の館長(校長)に就任。明治24年(1891年)3月、修猷館の校庭から、何者かによって投げられた瓦の破片が、通りを進んでいた歩兵第24連隊の隊列の兵士の小銃に当たったことに端を発し、ついには陸軍省と文部省の対立にまで発展する事件(修猷館投石事件)が発生し、その収拾のため辞任することとなった[4]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 江島茂逸『江島茂逸雜纂 第4巻』福岡市民図書館、1979年、14-22頁。
- 水崎雄文『修猷館投石事件:明治二十四年、中学校と軍隊の衝突』花乱社、2018年、41-44頁。ISBN 978-4-90532-793-6。
- 読売新聞社西部本社編『福岡百年 (上) 幕末から明治へ』浪速社、1967年、184-187頁。
- 石瀧豊美『玄洋社・封印された実像』海鳥社、2010年、【資料④】玄洋社社員名簿29頁。ISBN 978-4-87415-787-9。