尹克栄
尹 克栄(ユン・グギョン、朝鮮語: 윤극영、1903年 - 1988年)は、日本統治時代の朝鮮と大韓民国の童謡作家、作曲家、児童文化運動家[1]。
本貫は海平尹氏[2]。あだ名は作品名からとった「半月おじいさん」(반달할아버지)である[1]。
経歴
[編集]1903年、ソウル生まれ。校洞普通学校を卒業した後、1917年に京城高等普通学校を経て、京城法学専門学校に入学したが、1921年に中退した。その後は日本に渡り、東京音楽学校・東洋音楽学校などで声楽とバイオリンを専攻した[1]。
1923年にセクトン会の創立同人に加わり、朝鮮語の童謡の創作を試みた。同年7月にソウルで開催された「全朝鮮少年指導者大会」に参加し、『童謡に対する実在論』(동요에 대한 실재론)というタイトルの講演をした。関東大震災後の1924年にソウルに帰り、童謡団体「ダリア会」を組織し[3]、児童文化運動、童謡創作と作曲運動を行った。1926年1月、ピアニストのオ・インギョンと共に満洲の龍井に行き、現地の東興中学校・光明中学校・光明高等女学校で音楽教師として約10年間務めた。現地で『ツバメ兄妹』(제비 남매)『雨傘3つ並んで』(우산 셋이 나란히)『漁り』(고기잡이)などの多くの童謡を作曲した後、1936年にソウルに戻り、音楽活動をしばらくした。同年にまた渡日し、1937年に劇場の歌手として就職し、芸術団の創立を試みた。1940年にまたソウル・間島を経由してハルビンに行き、ハルビン芸術団を創立したが失敗した。1941年には龍井に戻り、駅馬車事業を営みながら、間島省協和会会長を務めた。その後もまたハルビンで芸術活動を行った。解放後は1946年に龍井で警備隊に捕らえられ、3年の刑を宣告されたが、服役中に保釈された。1947年に天津から手押し車を押して朝鮮半島南部に帰国した[1]。
1987年には子供の心性啓発と馴化を目的とする童話・童謡・絵・演劇などの活動を推進する団体である童心文化院を設立・運営したが、1988年に85歳で死去した[3]。その後、童心文化院は半月文化院に改称され、ソウル未来遺産第1号である尹克栄家屋の管理者となった[1]。
作品・著書
[編集]音楽作品
[編集]最も有名な作品は「푸른 하늘 은하수 하얀 쪽배에」(青い空に銀河水、白い小舟に)から始まる1924年の『半月』(반달)であり、韓国最初の童謡とも呼ばれる[3][4]。他には「까치까치 설날은 어저께고요」(カササギのお正月は昨日)から始まる『お正月』(설날)[4]『おきなぐさ』(할미꽃)『漁り』(고기잡이)『うぐいす』(꾀꼬리)『玉兎の歌』(옥토끼노래)などの創作童謡を発表し、『つらら』(고드름)『朱鷺』(따오기)などの童謡に曲をつけるなどの童謡普及運動を行った。漸層法による童謡の創作を通じて、草創期の児童文学運動に大きく貢献した[1]。
『半月』は中国でも有名な童謡の1つである。1950年代初頭、北京で朝鮮族の音楽家父子により中国語に翻訳・編曲され、1979年に30年間の愛唱歌として『小白船』というタイトルで中国全国通用の音楽教科の教科書に収録された[1]。なお、この曲は中国で演奏される時、「朝鮮族童謡」としか紹介せず、作者について触れないこともある[5][6]。
著書
[編集]主な著書として、韓国初の童謡曲集『半月』(반달、1925年)や『尹克栄111曲集』(1963年)などがある[1]。
賞勲
[編集]1956年には第1回「小波賞」を受賞。1963年にはソウル教育大学制定の「ありがたい先生様」に推戴され、1970年には国民勲章木蓮章を受章した[1]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i “윤극영(尹克榮)” (朝鮮語). 韓国民族文化大百科事典. 2023年10月29日閲覧。
- ^ “[해평윤씨] 윤극영(尹克榮)”. 성씨뉴스닷컴. 한국뿌리문화보존회, 한국성씨총연합회 (2018年8月2日). 2023年10月29日閲覧。
- ^ a b c “寄稿 韓国初の童謡、尹克栄作「半月」…朴燦鎬 韓国大衆音楽研究会会員”. www.mindan.org (2014年5月7日). 2023年10月29日閲覧。
- ^ a b “[단독] [오늘의 세상] 윤극영 '반달' 원곡은 "푸른 하늘 은하수" 아닌 "푸른 하늘 은하물"이었다” (朝鮮語). 조선일보 (2012年5月5日). 2023年10月29日閲覧。
- ^ “조선족 민요로 소개된 우리 동요 ‘반달’…中 또 왜곡?” (朝鮮語). 국민일보 (2020年10月26日). 2023年10月29日閲覧。
- ^ “'반달'이 중국 민요?…中 예능까지 번진 '역사왜곡' 논란”. m.hankookilbo.com (2020年10月26日). 2023年10月29日閲覧。