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小笠原長常

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

小笠原 長常(おがさわら ながつね、文政元年10月27日1818年11月25日) - 明治11年(1878年))は、江戸時代末期(幕末)の旗本。小笠原氏7代当主(唐津藩分家、中島陣屋3,000石)。久貝正満の4男として江戸市ヶ谷に生まれ郁七郎と称し、のち小笠原長坦の養子となり織部と名乗る。同じく旗本の久貝正典は兄。養子に長功。官位は従五位下長門守、筑後守。軽鴎と号した。

経歴

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天保14年(1843年)、家督を継ぎ従五位下長門守に叙任され中奥小姓となる。嘉永6年(1853年)の甲府勤番を経て、安政3年(1856年)に浦賀奉行に就任する。安政5年(1858年)に京都町奉行となって安政の大獄に大きく貢献。万延元年(1860年)に大目付勘定奉行文久2年(1862年)に江戸北町奉行と重職を歴任し、新設された政事改革御用掛にも抜擢される。しかし同年後半、安政の大獄での活動を咎められて書院番頭に左遷。さらに間もなく免職、隠居処分となり家督を養子の長功に譲り、軽鴎と号す。

慶応元年(1865年)、再び登用されて官位を筑後守に改め神奈川奉行に復帰。慶応2年(1866年)に陸軍奉行海軍奉行となった。江戸幕府崩壊後、徳川宗家が静岡藩に転封となるとこれに従った。明治11年(1878年)、愛知県碧海郡中島村の旧代官早川邸に滞在中に病没。墓所は同所の竜泉寺。墓碑には勝海舟の「軽鴎小笠原長常君墓」の墓表、藤原次謙撰文、早川竜介書によるものである。

参考文献

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  • 新編岡崎市史20(総集編)