小田切須猶
表示
時代 | 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 慶長12年(1607年) |
死没 | 寛文2年7月18日(1662年8月31日)[1] |
別名 | 喜兵衛[1] |
戒名 | 良勲[1] |
墓所 | 赤坂松泉寺[1] |
官位 | 従五位下・美作守 |
幕府 | 江戸幕府目付→禁裏付 |
主君 | 徳川家康→徳川秀忠→徳川家光 |
氏族 | 小田切氏 |
父母 | 父:小田切光猶[1] |
妻 | 榊原忠勝娘[1] |
子 |
榊原直賢 養子:直利(中根正成二男)[1] |
小田切 須猶(おだぎり もちなお)は、江戸時代前期の武士。徳川氏家臣。
経歴
[編集]慶長19年(1614年)8歳の時、徳川家康に拝謁する[1]。のち大番に列し、寛永2年(1625年)12月11日、上総国天羽郡にて加恩180石を賜い、知行高330石となる[1]。駿府城にて守衛を勤め、のち江戸に戻ると100石を加賜される[1]。正保元年(1644年)8月2日、赤坂での水道工事の奉行を勤める[1]。慶安元年(1648年)4月、徳川家光が日光山に参った際、目付を勤めた[1]。
慶安3年(1650年)より目付に転じ、同4年(1651年)8月16日、布衣を許される[1]。同年11月21日、300俵を加賜される[1]。明暦2年(1656年)7月5日、駿府城にて稲葉正吉が自刃すると欽命を受け同地に赴く[1]。万治元年(1658年)5月6日、禁裏付に昇進し、摂津国島上・島下郡にて1000石の地を賜った[1]。同年閏12月25日従五位下・美作守に叙位・任官する[1]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 堀田正敦『寛政重脩諸家譜 第3輯』國民圖書、1923年 。