コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

小田切昌近

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
小田切昌近
時代 江戸時代中期
生誕 寛永16年(1639年
死没 正徳2年8月15日1712年9月15日[1]
別名 彌太郎、彌兵衛、加兵衛[1]
戒名 浄林[1]
墓所 東京都新宿区月桂寺[1]
主君 徳川家光徳川家綱徳川綱吉
氏族 小田切氏
父母 父:小田切昌快、母:小田切昌次養女(小田切昌直娘)[1]
兄弟 昌近昌一昌直青木昌廉、某(弥三郎)、某(加右衛門)、女子(石原安吉妻)、女子(高林正成妻)、女子(永田正勝妻)、女子(青木又左衛門某妻)、女子(岡野重明妻)[1]
間宮信秀[1]
昌雄、女子(石川忠部妻)、女子、女子[1]
テンプレートを表示

小田切 昌近(おだぎり まさちか)は、江戸時代中期の武士徳川氏家臣

経歴・人物

[編集]

正保3年2月16日1646年4月1日)8歳の時、徳川家光に拝謁する[1]万治2年7月4日1659年8月21日大番に列し、寛文元年12月12日1662年1月31日)に蔵米200俵を賜う[1]延宝7年6月3日1679年7月10日)番を辞し、小普請となる[1]。のち天和3年5月25日1683年6月19日)再び大番に列す[1]

貞享3年12月19日1687年2月1日上総国山辺郡砂田・萱野村にて争論が起こると、貞享4年7月6日1687年8月13日)同地に赴くが、勤務が疎かであるとして土岐頼殷、のち酒井忠予に預けられる[1]元禄元年5月9日1688年6月6日)赦免される[1]。元禄7年5月10日1694年6月2日)蔵米200俵を賜い、小普請となる[1]。元禄9年7月5日1696年8月2日)致仕する[1]。致仕号は秋山[1]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 寛政重修諸家譜』、巻第三百九十四