小田切昌次
表示
時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
---|---|
生誕 | 永禄11年(1568年) |
死没 | 正保元年8月25日(1644年9月25日) |
別名 | 庄三郎、新兵衛、新右衛門[1]、庄兵衛[2] |
戒名 | 宗樹[1] |
墓所 | 東京都中野区の保善寺[1] |
幕府 | 江戸幕府 具足奉行 |
主君 | 徳川家康→徳川秀忠→徳川家光 |
氏族 | 小田切氏 |
父母 | 父:小田切昌吉、母:牛奥織部某の妹[1] |
兄弟 | 昌重、某(加兵衛)、昌次、昌成[1] |
妻 | 牛奥昌次の娘[1] |
子 | 昌直、昌快、娘(石原安昌妻)、養女(小田切昌直娘、小田切昌快妻)[1] |
小田切 昌次(おだぎり まさつぐ)は、戦国時代から江戸時代初期の武将、旗本。
経歴・人物
[編集]天正11年(1583年)、16歳で徳川家康に拝謁する[1]。文禄元年(1592年)、文禄の役に従軍し、肥前国名護屋(現:佐賀県唐津市鎮西町名護屋)に至る[1]。同年11月1日に大番となり、蔵米三百俵を賜う[1]。のち大坂の陣では苅田の奉行を務め、そののち具足奉行に転じた[1]。