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小槻統良

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

小槻 統良(おづき の むねよし、生年不詳 - 正安2年1月7日1300年1月29日〉)は、鎌倉時代官人。初名は兼賀のち統栄冬良統良左大史小槻顕衡の子。官位正五位下左大史

経歴

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亀山院政期弘安5年(1282年正五位下に叙せられ、弘安9年(1286年主殿頭に任ぜられる。また、関白鷹司兼忠政所別当も務めた[1]。この頃、兼賀から統栄、冬良、統良に改名した。

永仁6年(1298年)父の小槻顕衡が没すると、統良が左大史に任ぜられ、引き続き壬生流で大夫史の地位を占めた。のち、記録所奉行や修理東大寺大仏長官を務める。正安元年(1299年小槻伊綱が左大史に任ぜられて再び大夫史に壬生・大宮両流が並び立つが、正安2年(1300年)正月5日に統良は大夫史在任1年余りで出家し、7日に卒去

官歴

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系譜

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系図纂要』による。

脚注

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  1. ^ 永仁4年8月4日 関白左大臣家政所下文『香取文書』「旧大禰宜文書」29
  2. ^ a b 『勘仲記』
  3. ^ a b c d 『地下家伝』
  4. ^ 『師守記』貞治6年6月3日条引用先例
  5. ^ 『系図纂要』

参考文献

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