小松光彦
小松 光彦(こまつ みつひこ、1895年(明治28年)8月21日[1][2] - 1972年(昭和47年)11月3日[1][注 1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]高知県出身[1][2][3]。陸軍大佐・小松栄の養子となる[1]。海南中学校(現高知県立高知小津高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業[1][2][3]。同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第3連隊付となる[1][3]。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を卒業し近衛歩兵第3連隊中隊長に就任[1][2][3]。
1928年(昭和3年)3月、陸軍省軍務局勤務となり、1931年(昭和6年)3月から1933年(昭和8年)5月までドイツに駐在[1]。この間、1932年(昭和7年)8月、歩兵少佐に昇進[1]。1933年5月、歩兵第30連隊大隊長に就任[1]。1934年(昭和9年)1月、陸軍省副官兼陸軍大臣秘書官となり[3]、1936年(昭和11年)8月、歩兵中佐に進んだ[1]。1937年(昭和12年)3月、陸大教官に転じ、1938年(昭和13年)7月、歩兵大佐に昇進し人事局徴募課長に就任[1][3]。1939年(昭和14年)1月、兵務局兵備課長に転じた[1][3]。
1940年(昭和15年)11月、陸軍兵器本廠付として日独伊三国混合委員会専門委員随員となり、1941年(昭和16年)1月、東京を出発し、同年2月、ドイツ大使館付武官補佐官に就任[1][3]。同年10月、陸軍少将に昇進[1][2][3]。1943年(昭和18年)1月、ドイツ大使館付武官に就任[1][2][3]。1945年(昭和20年)3月、陸軍中将に進んだ[1][2][3]。ドイツ降伏に伴い、同年7月、ドイツを出発[1][注 2]。1946年(昭和21年)1月、ドイツ大使館付武官を免官となり、同年2月に復員した[1]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[4]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。