小幡高政
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小幡 高政(おばた たかまさ、1817年12月26日(文化14年11月19日[1][2]) - 1906年(明治39年)7月27日[1][2])は、幕末の長州藩士。明治時代の官吏。実業家。銀行家。宇都宮県参事、小倉県参事、同権令。諱は高政、通称は又介、蔵人、図書、彦七、雅号は缾山、并山[1]。本姓は祖式[1][2]。
経歴
[編集]長州藩士[1][2]。祖式正良の子として周防国吉敷郡恒富村(山口県吉敷郡黒川村、平川村を経て、現山口市)に生まれ、1844年(弘化元年1月)小幡定一の養子となる[3]。1850年(嘉永3年8月)家督を相続し、非常手当表番頭、1851年(嘉永4年)大組物頭弓頭役、1856年(安政3年)手廻物頭鉋砲頭役、1858年(安政5年)萩町奉行役、江戸留守居役などを歴任した[1]。
1862年(文久2年)公武間周旋御内用掛として江戸、京都間を往復[1]。1864年(元治元年10月)一旦辞職したが、1865年(慶応元年)三田尻頭人役、1866年(慶応2年)表番頭として北第五大隊総督用掛を務め、長州征討では芸州口に出陣した[1]。
1867年(慶応3年)郡奉行となり、1868年(明治元年)民政主事、1869年(明治2年)社寺主事、祭祀少参事、1870年(明治3年)社寺改正署掛となり、1871年(明治4年10月)新政府に出仕し少議官に任じた[1]。
同年11月、宇都宮県参事、ついで1873年(明治6年)2月、小倉県参事に転じ、11月に同県権令に進んだ[1]。1876年(明治9年)3月、官を辞し、萩に戻り産業の奨励に努め、ナツミカンの栽培に尽くした[1]。ほか、第百十銀行頭取を務めた[2]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 日本歴史学会 編『明治維新人名事典』吉川弘文館、1981年。ISBN 9784642031141。
- 上田正昭ほか 監修『講談社日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 4062108496。