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小島瑞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

小島 瑞(こじま みづ、1921年大正10年)11月25日 - 1995年平成7年)9月22日)は、日本の医師病理学者。医学博士。元筑波大学医学専門学群副群長、元水戸済生会総合病院顧問。福島県立医科大学名誉教授。

略歴

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新潟県佐渡郡金沢村大字(現 佐渡市泉)出身[1]1938年昭和13年)3月に新潟中学校を4年で修了、1941年(昭和16年)3月に新潟高等学校文科乙類を卒業、1944年(昭和19年)9月に新潟医科大学を半年繰り上げ卒業。

太平洋戦争海軍軍医として応召、海軍軍医学校で終戦、1946年(昭和21年)1月に復員、2月に新潟医科大学病理学教室(担任:赤崎兼義教授)に入室、1950年(昭和25年)1月に新潟大学から医学博士号を取得。

1952年(昭和27年)10月に福島県立医科大学病理学教室講師に就任、1954年(昭和29年)8月に東北大学医学部病理学・病理解剖学第二講座[注 1](担任:赤崎兼義教授)助教授に就任。

1959年(昭和34年)8月から1960年(昭和35年)11月まで、アメリカ合衆国コネチカット州リッジフィールド英語版のニューイングランド医学研究所 (New England Institute for Medical Research) [注 2]に留学。

1960年(昭和35年)12月に福島県立医科大学病理学第一講座教授に就任[2]1979年(昭和54年)4月に筑波大学基礎医学系病理教授に就任、1980年(昭和55年)6月に筑波大学医学専門学群副群長に就任。

1985年(昭和60年)3月に筑波大学を定年退官、5月に東京女子医科大学客員教授に就任、水戸済生会総合病院顧問に就任、1987年(昭和62年)3月に東京女子医科大学を退職、1989年平成元年)に福島県立医科大学名誉教授の称号を受称[3]

1995年(平成7年)9月22日午後8時13分に水戸済生会総合病院で胸部大動脈瘤破裂のため死去[1]

網内系と網内系疾患についての業績で知られた[4]

表彰

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  • 1957年昭和32年) - 東北大学医学部奨学賞金賞「炎症の細胞病理学的研究」[5]
  • 1977年(昭和52年) - 第9回内藤記念科学振興賞「細網内皮系統の細胞病理学的研究」[6]

著書

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編書

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論文

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脚注

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注釈

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  1. ^ 1955年昭和30年)7月に病理学第二講座に改称。
  2. ^ 1966年(昭和41年)にニューイングランド研究所 (New England Institute) に改称、1982年(昭和57年)に財政難で閉鎖。

出典

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  1. ^ a b 新潟日報』1995年9月24日付朝刊、27面。
  2. ^ 教授挨拶|沿革|公立大学法人 福島県立医科大学 医学部 病理病態診断学講座
  3. ^ 名誉教授 / 大学のあゆみ (歴代学長 等) / 公立大学法人 福島県立医科大学
  4. ^ 日本近現代 医学人名事典 1868-2011』253頁。
  5. ^ 医学部奨学賞 歴代受賞者 | 東北大学大学院医学系研究科・医学部
  6. ^ 内藤記念科学振興賞 これまでの受賞者 - 公益財団法人 内藤記念科学振興財団

参考文献

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  • 「小島瑞」『日本近現代 医学人名事典 1868-2011』252-253頁、泉孝英[編]、医学書院、2012年。
  • 「小島瑞」『現代 物故者事典 1994〜1996』226頁、日外アソシエーツ[編]、日外アソシエーツ、1997年。
  • 「小島瑞」『新潟県 人物・人材情報リスト 2021 第1巻』507頁、日外アソシエーツ[編]、日外アソシエーツ、2020年。
  • 「小島瑞氏」『新潟日報』1995年9月24日付朝刊、27面、新潟日報社、1995年。

関連文献

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学職
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