コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

小原光雲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

小原 光雲 (おはら こううん、1880年明治13年)12月19日1938年昭和13年)8月13日)は 大正-昭和時代前期の華道家いけばな小原流二世家元島根県松江市出身[1]。本名は光一郎[2]

経歴

[編集]

1880年(明治13年)、島根県松江市に生まれる。1890年(明治23年)、父(小原雲心)に呼ばれ大阪に転居する。父の勧めで商人を目指していたが、小原流興隆のため1904年(明治37年)、25歳で華道家に転身。1916年(大正5年)、父の死を受けて小原流家元を継承[3]。以来、積極的に花展を開催し、ラジオ新聞雑誌などで講座を受け持つなど、小原流いけばなの大衆化を図る。盛花に「型」を定め家元制度を確立させ、盛花をいける人を急増させる[4]。大阪花道協会長などを歴任し、自由花系諸流派の旗頭を務めた。また、流内における後継者を育成するため、技法や教授法を整備した。1916年(大正5年)からは、天皇皇后御座所でもたびたびその腕前を披露し[5]パリ万国博覧会1937年(昭和12年))にて上映された映画「日本のいけばな」の製作における技術指導も担当するなど、家元として、そして作家としていけばな文化の振興に努めた[6]。商人を志していたこともあり経営の才覚にも優れており、「いけばなはソロバンなり」との名言を残した[7]池坊幹部でもあったため、池坊は小原流の併用を容認しており、門弟は二重看板が認められていた[8]

脚注

[編集]
  1. ^ 小原光雲 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」コトバンク 2018年7月21日閲覧。
  2. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus『小原光雲』 - コトバンク
  3. ^ 小原流史 上巻 小原流史編纂実行委員会刊p302-308
  4. ^ 四季の盛花 小原光雲・著 女学生画報社
  5. ^ 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)
  6. ^ 小原流史 上巻 小原流史編纂実行委員会刊p308、316
  7. ^ 華道家平こま歴史が眠る多磨霊園
  8. ^ 海野弘『花に生きる 小原豊雲伝』平凡社、2010年、p181

著作物

[編集]

・『盛花瓶華集 』女学生画報社、1918年

関連項目

[編集]

いけばな(華道)
小原流
盛花
家元
小原雲心

外部リンク

[編集]