小原光雲
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小原 光雲 (おはら こううん、1880年(明治13年)12月19日 – 1938年(昭和13年)8月13日)は 大正-昭和時代前期の華道家。いけばな小原流二世家元。島根県松江市出身[1]。本名は光一郎[2]。
経歴
[編集]1880年(明治13年)、島根県松江市に生まれる。1890年(明治23年)、父(小原雲心)に呼ばれ大阪に転居する。父の勧めで商人を目指していたが、小原流興隆のため1904年(明治37年)、25歳で華道家に転身。1916年(大正5年)、父の死を受けて小原流家元を継承[3]。以来、積極的に花展を開催し、ラジオや新聞・雑誌などで講座を受け持つなど、小原流いけばなの大衆化を図る。盛花に「型」を定め家元制度を確立させ、盛花をいける人を急増させる[4]。大阪花道協会長などを歴任し、自由花系諸流派の旗頭を務めた。また、流内における後継者を育成するため、技法や教授法を整備した。1916年(大正5年)からは、天皇皇后御座所でもたびたびその腕前を披露し[5]、パリ万国博覧会(1937年(昭和12年))にて上映された映画「日本のいけばな」の製作における技術指導も担当するなど、家元として、そして作家としていけばな文化の振興に努めた[6]。商人を志していたこともあり経営の才覚にも優れており、「いけばなはソロバンなり」との名言を残した[7]。池坊幹部でもあったため、池坊は小原流の併用を容認しており、門弟は二重看板が認められていた[8]。
脚注
[編集]著作物
[編集]・『盛花瓶華集 』女学生画報社、1918年