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寿聿彭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
寿聿彭
『満洲紳士録』第三版(1940年)
プロフィール
出生: 1885年光緒11年)8月18日[1][2][3][4]
死去: 没年不詳
出身地: 清の旗 盛京将軍管轄区瀋陽県[1][2][3][4]
職業: 官僚・実業家
各種表記
繁体字 壽聿彭
簡体字 寿聿彭
拼音 Shòu Yùpéng
ラテン字 Shou Yü-p'eng
和名表記: じゅ いつほう
発音転記: ショウ・ユーポン
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寿 聿彭(じゅ いつほう/じゅ いっぽう、1885年 – 没年不詳)は、中華民国満洲国の官僚・実業家。別号は先五[3]

事績

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奉天法政学堂法律特別科を卒業。1915年民国4年)4月に奉天内務府座弁、1918年(民国7年)6月に黒竜江省国防籌備処科長、1922年(民国11年)7月に東三省兵工廠庶務科長、1925年(民国14年)1月に同工廠材料科長と歴任している。その後も1926年(民国15年)2月に同工廠庶務処長兼奉天造幣廠長[5]1928年(民国17年)8月に西安煤鉱公司総弁、1932年(民国21年)1月に奉天省政府諮議と歴任した[1][2][3][4]

満洲国建国後の1932年大同元年)6月、民政部土地局長に任命され、以後、地籍整理局長、恩賞局長を歴任する。1939年(康徳6年)11月6日、北安省長に任命され、1941年(康徳8年)10月11日までつとめる。1942年(康徳9年)4月、本渓湖煤鉱公司理事となり、1943年(康徳10年)時点でも在任している[1]

1944年以降における寿聿彭の行方は不詳となっている。

脚注

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出典

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  1. ^ a b c d 満蒙資料協会編(1943)、1297頁。
  2. ^ a b c 帝国秘密探偵社編(1940)、「満洲」75頁。
  3. ^ a b c d 外務省情報部編(1937)、646頁。
  4. ^ a b c 挙国社(1934)、「国都」30頁。
  5. ^ 挙国社(1934年)は「造兵廠」としているが、他の資料の「造幣廠」に従う。

参考文献

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  • 満蒙資料協会編『満洲紳士録 第四版』満蒙資料協会、1943年。 
  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第十三版 外地・満支・海外篇』帝国秘密探偵社、1940年。 
  • 外務省情報部編『現代中華民国満洲帝国人名鑑 昭和十二年版』東亜同文会業務部、1937年。 
  • 『大満洲帝国名鑑 昭和九年版』挙国社、1934年。 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  満州国
先代
馮広民
北安省長
1939年11月6日 - 1941年10月11日
次代
李叔平