寺田縉太郎
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寺田 縉太郎(てらだ しんたろう、1937年(昭和12年)4月9日 - )は、日本の実業家。BPカストロール名誉会長[1][2]。ペトロルブ・インターナショナル名誉会長[2]。曽祖父は浅野財閥の創始者・浅野総一郎。Sansan創業者兼代表取締役社長の寺田親弘は三男。
経歴
[編集]東京都出身。富士産業会長を務めた寺田統一郎の長男として誕生[1][3][4]。戦時中は岐阜県揖斐郡に集団疎開を経験した[4]。
1961年(昭和36年)慶応義塾大学経済学部卒業、同年日本石油に勤務[2][1]。1978年(昭和53年)9月ペトロルブ・インターナショナルを設立し、社長、会長、名誉会長を歴任[2][1]。
人物
[編集]名前の「縉」は中国のめでたい席に必ず飾る赤い絹を指し、縁起のよい意味をとって名が付けられた[4]。
趣味はゴルフ、読書、陶芸[1]。柔道は6段の腕前[5]。宗教は日蓮宗[1]。
家族
[編集]寺田家
[編集]- 祖父・洪一(1870年(明治3年)9月15日生)
- 祖母・やす(1880年(明治13年)9月生)
- 浅野総一郎の庶子[6]。
- 父・統一郎(1906年(明治39年)1月12日生)
- 母・志津子(1907年(明治40年)3月19日生)
- 姉・紘子(1936年(昭和11年)3月6日生)
- 妹・純子(1942年(昭和17年)9月19日生)
- 妻・和子(1942年(昭和17年)7月14日生)
- 長男・明生(1968年(昭和43年)7月15日生)[1]
- 次男・武史(1971年(昭和46年)9月1日生)[1]
- 三男・親弘(1976年(昭和51年)12月29日生)
- 慶應義塾大学環境情報学部卒[1]。三井物産元社員[1]。Sansan創業者兼代表取締役社長。
親戚
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k 『人事興信録 第45版 下』興信データ、2009年、て-16頁。
- ^ a b c d “第三章 仕事 | 自分史ー寺田縉太郎ー”. 自分史|寺田新縉太郎 | 自分史ー寺田縉太郎ー. 2024年10月13日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m “人事興信録 第25版 下”. dl.ndl.go.jp. 人事興信所. p. 22(て之部) (1969年). 2024年10月13日閲覧。
- ^ a b c “第一章 生い立ち・戦争の経験 | 自分史ー寺田縉太郎ー”. 自分史|寺田新縉太郎 | 自分史ー寺田縉太郎ー. 2024年10月13日閲覧。
- ^ “第二章 柔道との出会い・大怪我からの復活 | 自分史ー寺田縉太郎ー”. 自分史|寺田新縉太郎 | 自分史ー寺田縉太郎ー. 2024年10月13日閲覧。
- ^ a b c d e “寺田洪一 (第4版) - 『人事興信録』データベース”. jahis.law.nagoya-u.ac.jp. 2024年10月13日閲覧。
- ^ “伊藤秀吉 (第4版) - 『人事興信録』データベース”. jahis.law.nagoya-u.ac.jp. 2024年10月13日閲覧。
- ^ 人事興信所 (1969年). “人事興信録 第25版 上”. dl.ndl.go.jp. p. 34(さ之部). 2024年10月13日閲覧。
- ^ “第四章 家族 | 自分史ー寺田縉太郎ー”. 自分史|寺田新縉太郎 | 自分史ー寺田縉太郎ー. 2024年10月13日閲覧。
- ^ a b c “人事興信録 第25版 上”. dl.ndl.go.jp. 人事興信所. p. 71(あ之部) (1969年). 2024年10月13日閲覧。
- ^ a b c d “人事興信録 第25版 下”. dl.ndl.go.jp. 人事興信所. p. 1(ま之部) (1969年). 2024年10月13日閲覧。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第25版 上』人事興信所、1969年。
- 人事興信所編『人事興信録 第25版 下』人事興信所、1969年。
- 人事興信所編『人事興信録 第45版 上』人事興信所、2009年。