寺垣忠雄
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寺垣 忠雄 | |
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生誕 |
1895年5月11日 日本 石川県 |
死没 | 1966年2月18日(70歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1916年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
寺垣 忠雄(てらがき ただお、1895年(明治28年)5月11日[1] - 1966年(昭和41年)2月18日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級[2]
経歴
[編集]1895年(明治28年)に石川県で生まれた[1]。1913年(大正2年)3月に金沢一中(同級には外交官になった森島守人がいる)を卒業後、陸軍士官学校第28期、陸軍大学校第40期卒業[3]。アメリカ駐在を経て[2]、1935年(昭和10年)に秩父宮雍仁親王附となる[4]。1937年(昭和12年)に上海派遣軍後方課長に就任し[4]、日中戦争に出動。1938年(昭和13年)3月1日には歩兵第35連隊長に転じ[4]、7月15日に陸軍歩兵大佐に進級[4]。漢口攻略などで戦果を収めた[1][3]。
1939年(昭和14年)に陸軍大学校兵学教官に転じ[4]、1941年(昭和16年)に陸軍少将に進級[4]。1942年(昭和17年)に第12軍参謀長に転じ[1]、1944年(昭和19年)に第1方面軍参謀長と歴任[1]。1945年(昭和20年)3月1日に陸軍中将に進級[4]、4月1日に第142師団長に親補され[1]、宮城県石巻に布陣し[1]、終戦を迎えた。終戦後の8月25日に陸軍省軍務局附を経て[5]、9月3日に中部軍管区司令部附、9月10日に兼第2総軍参謀、9月21日に第2総軍参謀副長を発令された[6]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[7]。
栄典
[編集]- 勲章
- 外国勲章佩用允許
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h 福川 2001, 485頁.
- ^ a b 外山 1981, 391頁.
- ^ a b 福川 2001, 486頁.
- ^ a b c d e f g 外山 1981, 392頁.
- ^ 「第1号 昭和20年8月31日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120963200
- ^ 「第2号 昭和20年9月30日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120963300
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」163頁。
- ^ 『官報』第4280号「叙任及辞令」1941年4月16日。
- ^ 「畑俊六外七十二名」 アジア歴史資料センター Ref.A10113475800
参考文献
[編集]- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。