富永就姓
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長9年(1604年) |
死没 | 貞享5年1月8日(1688年2月9日) |
改名 | 宍戸猪之介(幼名)→富永猪之介→富永就姓 |
別名 | 六郎左衛門尉(通称) |
主君 | 毛利輝元→秀就→綱広→吉就 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 藤原北家道兼流八田氏族宍戸氏→富永氏 |
父母 | 父:宍戸元真、母:富永元康の娘 |
兄弟 | 男子、就姓、宍戸元忠 |
子 | 宍戸就正 |
富永 就姓(とみなが なりうじ)は、江戸時代前期の武士。毛利氏家臣で長州藩士。父は宍戸元真。母は富永元康の娘。
生涯
[編集]慶長9年(1604年)、毛利氏家臣である宍戸元真の次男として生まれる[1]。
慶長15年(1610年)、毛利輝元の小姓として仕え始め[1]、就姓の母の申し出を聞き届けた輝元は、就姓に「富永」の苗字を名乗らせて富永氏の先知行地を与えるよう毛利秀就に申し聞かせることを約束した[2]。
また、輝元が病に伏せった際、就姓が輝元の側に日夜詰めて油断なく奉公していることを福原元頼から聞いた毛利秀就に賞賛されている[3]。
寛永5年(1628年)12月28日、毛利秀就から「就」の偏諱と「六郎左衛門尉」の官途名を与えられた[4]。
貞享5年(1688年)1月8日に死去[1]。享年85[1]。子の就正が後を継いだ[1]。なお、就正の代になっても富永氏の先知行地が与えられなかったため、就正が苗字を「宍戸」に戻すことを願い出て、以後は宍戸の苗字を名乗ることとなる[1]。
系譜
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。全国書誌番号:73004060。国立国会図書館デジタルコレクション
- 『萩藩閥閲録』巻32「宍戸権之助」