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富永就姓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
富永就姓
時代 江戸時代前期
生誕 慶長9年(1604年
死没 貞享5年1月8日1688年2月9日
改名 宍戸猪之介(幼名)→富永猪之介→富永就姓
別名 六郎左衛門尉(通称)
主君 毛利輝元秀就綱広吉就
長州藩
氏族 藤原北家道兼流八田氏族宍戸氏富永氏
父母 父:宍戸元真、母:富永元康の娘
兄弟 男子、就姓宍戸元忠
宍戸就正
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富永 就姓(とみなが なりうじ)は、江戸時代前期の武士毛利氏家臣で長州藩士。父は宍戸元真。母は富永元康の娘。

生涯

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慶長9年(1604年)、毛利氏家臣である宍戸元真の次男として生まれる[1]

慶長15年(1610年)、毛利輝元小姓として仕え始め[1]、就姓の母の申し出を聞き届けた輝元は、就姓に「富永」の苗字を名乗らせて富永氏の先知行地を与えるよう毛利秀就に申し聞かせることを約束した[2]

また、輝元が病に伏せった際、就姓が輝元の側に日夜詰めて油断なく奉公していることを福原元頼から聞いた毛利秀就に賞賛されている[3]

寛永5年(1628年12月28日、毛利秀就から「就」の偏諱と「六郎左衛門尉」の官途名を与えられた[4]

貞享5年(1688年1月8日に死去[1]。享年85[1]。子の就正が後を継いだ[1]。なお、就正の代になっても富永氏の先知行地が与えられなかったため、就正が苗字を「宍戸」に戻すことを願い出て、以後は宍戸の苗字を名乗ることとなる[1]

系譜

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脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ a b c d e f 『閥閲録』巻32「宍戸権之助」家譜。
  2. ^ 『閥閲録』巻32「宍戸権之助」第1号、年不詳9月3日付、宍戸猪之介(就姓)宛て毛利輝元書状。
  3. ^ 『閥閲録』巻32「宍戸権之助」第2号、年不詳2月3日付、宍戸猪之介(就姓)宛て毛利秀就書状。
  4. ^ 『閥閲録』巻32「宍戸権之助」第3号、寛永5年(1628年)12月28日付、富永猪之介(就姓)宛て毛利秀就書状。

参考文献

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  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 萩藩閥閲録』巻32「宍戸権之助」