宮村三多
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宮村三多 みやむら さんた | |
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生年月日 | 1857年1月1日 |
出生地 |
日本 豊前国下毛郡 (現大分県中津市) |
没年月日 | 1908年2月2日(51歳没) |
出身校 | 中津市学校 |
前職 |
千葉成田英漢義塾長 (現成田高等学校・付属中学校) |
所属政党 |
(自由党→) 帝国党 |
選挙区 | 大分県郡部選挙区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1902年8月 - 1903年12月11日 |
宮村 三多(みやむら さんた、1857年1月1日(安政3年12月6日[1])- 1908年(明治41年)2月2日[2])は、明治期の教育者、実業家、政治家。衆議院議員。
経歴
[編集]豊前国下毛郡、のちの大分県[2]下毛郡中津町(現中津市)で生まれる[3][注釈 1]。藩儒・橋本塩巌に師事し漢籍を修めた[3][4]。さらに中津市学校で英学、数学、法学、経済学を学んだ[2][3][4]。千葉県中学校(現千葉県立千葉中学校・高等学校)助教諭を経て、同県成田英漢義塾(現成田高等学校・付属中学校)長に就任した[2][3]。
帰郷して1877年(明治10年)亦一社を設立して自由民権運動に加わり[4]、1879年(明治12年)国会開設請願運動を展開し、翌年元老院に提出した[4]。亦一社の解散後、大分県下毛郡視学に就任[2][3]。1891年(明治24年)反改進派として大分県会議員に選出され[2][3][4]、同参事会員も務め[2][3]、1899年(明治32年)豊国同志倶楽部の結成に際して元田肇の指名で筆頭幹事に就任[4]。その後、元田と別れて帝国党に加わった[4]。
1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(大分県郡部、帝国党)で初当選し[4][5]、1903年(明治36年)3月の第8回総選挙でも再選され[5]、衆議院議員に連続2期在任した[2]。1901年(明治34年)から対露強硬論を主張したが[4]、日露戦争開戦直後の第9回総選挙で落選した[4][5]。
その後、実業界に転じ[4]、中津米穀取引所理事長、中津紡績取締役、大分鉄道期成会幹事、中津貯金銀行取締役、中津共立銀行監査役などを務めた[2][3][4]。
国政選挙歴
[編集]- 第1回衆議院議員総選挙(大分県第6区、1890年7月、自由党)次点落選[6]
- 第2回衆議院議員総選挙(大分県第6区、1892年2月、自由党)落選[6]
- 第3回衆議院議員総選挙(大分県第6区、1894年3月、自由党)次点落選[6]
- 第4回衆議院議員総選挙(大分県第6区、1894年9月、自由党)次点落選[7]
- 第7回衆議院議員総選挙(大分県郡部、1902年8月、帝国党)当選[5]
- 第8回衆議院議員総選挙(大分県郡部、1903年3月、帝国党)当選[5]
- 第9回衆議院議員総選挙(大分県郡部、1904年3月、帝国党)次点落選[5]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 出自については、中津藩士中村家に誕生した、または川端家に生まれ中村家の養子となったともいわれている。『大分県歴史人物事典』486頁。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 山本艸堂編『下毛郡史』私立三余女学校、1912年。
- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『大分県歴史人物事典』大分合同新聞社、1996年。