宮崎総五
宮崎総五 | |
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生年月日 | 文政11年8月1日(1828年9月9日) |
出生地 |
駿河国有渡郡弥勒町 (静岡県静岡市葵区弥勒二丁目) |
没年月日 | 1909年4月24日(80歳没) |
死没地 |
静岡県安倍郡大里村弥勒 (静岡県静岡市葵区弥勒二丁目) |
配偶者 | 後藤氏 |
親族 | 孫:宮崎喜久太郎(貴族院議員) |
貴族院議員 | |
選挙区 | 静岡県 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1890年9月29日 - 1897年9月28日 |
在任期間 | 1878年3月12日 - 1880年2月5日 |
宮崎総五(みやざき そうご)は明治時代の静岡県の政治家。幼名は喜久太郎、後に五郎左衛門[1]。号は桜蔭[2]。駿府郊外の旧家に生まれ、幕末に勤皇家と接近し、明治時代静岡県政に関わり、初代有渡安倍郡長、第一回多額納税者議員を歴任した。
生涯
[編集]生い立ち
[編集]文政11年(1828年)8月1日、駿河国有渡郡弥勒町の旧家宮崎五郎左衛門家に生まれた[1]。宮崎家は江戸時代初期の弥勒町一帯を開拓した家柄で、弥勒町は村方ではあったが、東海道府中宿の西外れで安倍川に接する交通の要衝であり、代々旅行者に休息所を提供していた。
高村保六に漢籍、鶴田卓池に俳歌、平田鉄胤に皇学を学んだ[1]。弘化元年(1844年)、父に倣い17歳で家業を継いだ[1]。
幕末
[編集]嘉永7年(1854年)の安政東海地震では、自宅も被害を受ける中、大火を防ぐため奔走した[1]。元治元年(1864年)弥勒町名主となり、安倍川の川越助郷、堤防修築等を統括した[1]。安政6年(1859年)1月13日、これらの善業が讃えられ、駿府町奉行鵜殿鳩翁に5貫文を下賜された[1]。
幕末動乱にあっては、坂本龍馬、原市之進、綿引東海等勤皇家と交流を持ち、彼らが東海道を通過する際に宿を提供したという[1]。
明治元年(1868年)戊辰戦争が勃発し、橋本実梁、柳原前光率いる先鋒が駿府に来ると、萩原鶴夫と共に参与附属都筑九郎右衛門に会い、官軍への協力を求められた[1]。
5月有栖川宮熾仁親王率いる本軍が駿府城に入ると、西郷隆盛、林通顕、玉手弘通、亀田喜代蔵等と会い、官軍への合流を求められたが、父に反対されたため、代わりに百姓稲葉彦兵衛以下5名を向かわせた[1]。
10月明治天皇東行の際、安倍川に仮橋を設け、15日家を行在所として提供した[1]。1878年(明治11年)11月4日にも再び行在所となり、岩倉具視に褒詞を受けている[1]。
静岡県政参画
[編集]明治元年(1868年)9月徳川家達が駿府藩に赴任すると、その用達に指名され、水利路程係として治水を担当し、士格に列せられた[1]。明治2年(1869年)1月藩士として赴任した渋沢栄一の事業に参加し、商法会所附属、明治3年(1870年)常平倉監督を務めた[1]。
明治5年(1872年)廃藩置県により静岡県が誕生すると、参事浅野氏祐より第五十区戸長を命じられ、人口調査を行った[1]。
明治4年(1871年)安倍川は川越から渡船に変更されたため、富士川、天竜川の船頭を雇い、失業した人足に漕法を習わせたが、上達せず、1873年(明治6年)安水橋建設を計画し、翌年竣工した[1]。1876年(明治9年)には、杉山喜平治、仁藤延吉、水谷九郎平等地元の有力者と共に宇津ノ谷峠に隧道を開削した[1]。
1875年(明治8年)権令大迫貞清の下で学校200校余りを新設し、8月15日勧業係兼務、12月教部省中講義、明治9年(1876年)6月第四五大区区長兼管内民費取調係を歴任した[1]。1876年(明治9年)足柄県伊豆国部分が静岡県に併合されると、県大属永峰弥吉と韮山町に出張し、地元の区戸長等と討議を行った[1]。
1875年、出島竹斎、山村嘉平、福島茂平と共に、久能山東照宮社金2万8千円の取扱を命じられ、資金運用により1887年(明治20年)には10万円余に増殖させた[1]。
1876年(明治9年)2月宅地内に朝陽義塾を設立し、学者を招いて漢学、洋学を教えた。英学は箕作秋坪門下梅沢武雄が担当し、福島勝太郎、荻原太郎次郎、堀田録多、巻本角太郎等が輩出されたが、1878年(明治11年)には官立中学校が設立されて役目を終え、1882年(明治15年)頃廃校した[3]。
1876年(明治9年)6月6日静岡県顧問となり、地租改正に際し有渡郡、安倍郡、志太郡、益津郡、庵原郡5郡を担当し、静岡市の地価設定に関わった[1]。
1877年(明治11年)郡区町村編制法が制定され、1878年(明治12年)3月12日から1880年(明治14年)2月5日まで有渡安倍郡長を務めた[4]。
明治11年(1878年)静岡病院設立に際し資金を負担した[1]。
貴族院議員選出
[編集]1889年(明治22年)2月貴族院令が発布されると、1890年(明治23年)6月10日互選会で県下多額納税者15名より最多得票を集め、貴族院議員に選出され[1]、同年9月29日に就任し[5]、東京市に出て麹町区飯田町三丁目27番地に住んだ[6]。この時納税額は1,728円74銭5厘で、富士郡松永安彦、掛川市山崎千三郎に次いで県下第三位[7]。
1896年(明治29年)、日本勧業銀行法案、農工銀行法案の審議に参加している[8]。1897年(明治30年)任期を終えて帰郷した。
1909年(明治42年)4月24日午前10時病没し、28日寺町興禅寺で葬儀が行われた[9]。
宮崎家
[編集]先祖宮崎五郎左衛門英一は武田信玄、武田勝頼に仕えた後、天正3年(1575年)駿河国安倍川沿岸に土着し、土地を開拓した[1]。その子源右衛門英通は修験者となり弥勒院を建てたが、還俗してこれを大名の休憩所とした[1]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad 前島豊太郎『宮崎総五君之伝』前島豊太郎、明治23年
- ^ 富田鉄之助「経済纂論序」大島貞益『経済纂論』野崎鶴吉、明治33年
- ^ 飯田宏『静岡県英学史』国宝社、1967年 p.33-34
- ^ 『静岡県安倍郡誌』安倍郡時報社、大正3年 p.119
- ^ 『官報』第2179号、明治23年10月2日。
- ^ 『日本紳士録』第2版、交詢社、明治25年 p.600
- ^ 後藤本馬編『帝国議会議員選挙者名鑑』金松堂、明治23年6月 p.35
- ^ 『第九回帝国議会貴族院日本勧業銀行法案、農工銀行法案特別委員会速記録第一号』明治29年3月19日
- ^ 『東京朝日新聞』明治42年4月27日 p.7