宮崎淳臣
宮崎 淳臣 | |
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生誕 | 1915年4月27日 |
死没 | 没年不明 |
最終階級 | 陸軍軍医少佐 |
除隊後 |
国立東京第一病院病理試験室勤務 千葉県血清製造所所長代理兼主任技術者 |
宮崎 淳臣(みやざき きよおみ、1915年(大正4年)4月27日 - 没年不明)は、日本の陸軍軍人(軍医将校)、医師。最終階級は陸軍軍医少佐。かつて731部隊に所属していた[1][2]。宮崎神経科嵯峨病院創立者。子に豊田潤多郎、孫に豊田剛一郎。紺綬褒章受章者。
経歴
[編集]兵庫県出身。宮崎伝治の長男として生まれる[3]。旧制姫路高等学校理科乙類を経て、1939年(昭和14年)に京都帝国大学医学部を卒業後、近衛歩兵第1連隊付軍医中尉に任官。1943年(昭和18年)軍医少佐に累進後、陸軍軍医学校教官兼陸軍軍医学校中山出張所長を務める[3]。1946年(昭和21年)千葉県血清製造初代所長となり、1948年(昭和23年)公職追放され医院を開業。1949年(昭和24年)『破傷風及瓦斯壞疽能働免疫に関する研究』にて学位を取得[3]。1958年(昭和33年)宮崎神経科嵯峨病院を開設し、1965年(昭和40年)紺綬褒章を受章[3]。
人物
[編集]森田靖郎著の『告白 731部隊』によれば、宮崎が中尉時代、纏指揮大佐である川島清の命令による細菌雨下試験の指揮を執っていたことを元731部隊の篠塚良雄(旧姓・田村)が供述している[4]。
千葉県歴史教育者協議会編集の『学校が兵舎になったとき―千葉からみた戦争 一九三一~四五』によれば、1945年4月、ワクチン血清製造施設の陸軍軍医学校中山出張所長であった宮崎は「本土決戦に備え10万リットルのガス壊疽血清を製造せよ」との命令を受け、横浜にある軍馬の集結所である「中央馬廠」に行き、そこで、ワクチンの「抗体馬(免疫馬)」供給への配慮を申請したことが記されている[注 1]。その後、中山競馬場には500頭の馬が収容されたが、宮崎は千葉県当局と相談して、船橋市立中学校および私立市川中学校の2年生約600人を馬の管理にあてた。尚、宮崎から千葉県当局への動員要請が中学校にどのように指示命令されてたかそのルートは不明である。
略歴
[編集]- 1935年4月1日 - 京都帝国大学医学部入学
- 1939年
- 3月31日 - 同部卒業
- 6月30日 - 陸軍軍医中尉任官
- 7月1日 - 陸軍軍医学校乙種学生入校
- 1940年6月18日 - 同校卒業、ハルピン石井部隊田部井研究室入所
- 1941年8月1日 - 任陸軍軍医大尉
- 1943年4月1日 - 陸軍選抜学生として伝染病研究所細谷研究所陸軍軍医学校防疫研究室入所
- 1944年
- 8月1日 - 任陸軍軍医少佐
- 12月1日 - 同所卒業、陸軍軍医学校付兼中山出張所長被命
- 1945年
- 1946年
- 2月1日 - 千葉県血清製造所開設に伴い同所所長代理兼主任技術者として勤務
- 4月30日 - 公職追放により同所退職
- 1958年 - 京都市右京区の嵯峨嵐山で宮崎神経科嵯峨病院(現・医療法人淳宰晃会 嵯峨さくら病院)開業[5]
主な著作
[編集]学位論文
[編集]- 『破傷風及瓦斯壞疽能働免疫に関する研究』京都大学〈博士学位論文(報告番号不明)〉、1949年4月4日。NAID 500000533729 尚、滋賀医科大学名誉教授の西山勝夫が、当論文を自身のホームページで一般公開している[2][6]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 本土決戦ともなると「軍馬補充部」の役目も終わるので、軍馬を全面的に「免疫馬」に供給することを担当者は了承した。
出典
[編集]- ^ 西山勝夫. “[http://war-medicine-ethics.com/Seniken/Journal/J13-2_Nishiyama1.pdf#page=23 731 部隊関係者等の京都大学における 医学博士の学位の授与過程]”. 2021年2月4日閲覧。
- ^ a b “32 宮崎淳臣 1949/4/1 2765 破傷風及瓦斯壊疽能動免疫に関する研究”. 西山勝夫. 2021年2月4日閲覧。
- ^ a b c d e 『人事興信錄』人事興信所、1999年 。
- ^ 森田靖郎『告白 731部隊』株式会社アナライズ、2012年12月17日 。
- ^ 病院紹介嵯峨さくら病院
- ^ “表1-1. 731部隊関係者等の京都大学における医学博士の学位授与記録の総括 ”. war-medicine-ethics.com. 西山勝夫. 2021年2月4日閲覧。