宮崎寒雉 (初代)
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初代 宮崎寒雉 (みやざきかんち、寛永8(1631)年 - 正徳2(1712)年[1][2])は、江戸時代の釜師。
来歴
[編集]加賀藩鳳至郡中居村(現・石川県穴水町中居)にて、宮崎彦九郎吉綱の次男として誕生[1]。通称彦九郎、名は義一[3]。
1642年ごろ京都の釜師に入門し後に金沢に帰郷。藩主前田綱紀が京都より裏千家四代千仙叟宗室を招いた際、仙叟宗室の指導を受け[2]、藩の御用釜師として「焼飯釜」等の茶の湯釜を制作する一方、数多くの梵鐘も鋳造した[1]。晩年は剃髪して一艸庵寒雉と称した[2]。
以後、歴代は寒雉を称し、2021年に十五代目が襲名されている[4]。
主な作品
[編集]出典
[編集]- ^ a b c 『愛蔵版 ふるさと人物伝』北國新聞社、2010年3月30日、301頁。ISBN 978-4-8330-1762-6。
- ^ a b c “作家解説|所蔵品のご案内|石川県立美術館”. www.ishibi.pref.ishikawa.jp. 2024年4月7日閲覧。
- ^ a b c 石川県 (2010年11月25日). “焼飯釜・葫蘆様釜”. 石川県. 2024年4月7日閲覧。
- ^ “【釜師】宮﨑 匠(十五代 寒雉) | 美術工芸 千華” (2014年9月23日). 2024年4月11日閲覧。
- ^ “常徳寺梵鐘|金沢市公式ホームページ いいね金沢”. www4.city.kanazawa.lg.jp. 金沢市. 2024年4月11日閲覧。