コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

宮崎仁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

宮崎 仁(みやざき じん、1920年5月21日 - 1999年3月30日[1])は日本大蔵技官三重県副知事経済企画庁総合開発局長、経済企画庁国民生活局長、経済企画庁総合計画局長、経済企画事務次官石油公団副総裁、アラビア石油副社長、同社社長、同社会長などを歴任。

来歴

[編集]

茨城県出身。旧制一高を経て東京帝国大学第二工学部電気工学科卒業[2]1945年3月 海軍兵学校教官(物理[3]1946年9月から1947年4月まで東亞合成化学工業に勤務。1947年6月 大蔵省入省(技官枠)。主計局[2]。宮崎が技官として採用される直前で採用された同期(1947年前期入省)に大倉真隆松川道哉吉田冨士雄嶋崎均らがいる。

1948年4月 主計局兼経済安定本部資源委員会事務局。1951年8月 八幡税務署長1959年8月 主計局主計官(建設・公共事業担当)。1962年6月1日 大臣官房専門調査官。同年6月20日 大臣官房財務調査官(主計局担当)。1963年6月1日 主計局主計官(農林担当)。1965年5月 三重県副知事1967年8月 経済企画庁総合開発局長。1970年7月 経済企画庁国民生活局長。1972年6月 経済企画庁総合計画局長。1974年6月29日 経済企画事務次官1976年1月20日 退官。1977年10月 石油公団副総裁。1981年3月 アラビア石油取締役副社長1982年4月 アラビア石油代表取締役社長1987年3月 アラビア石油代表取締役会長1989年3月 アラビア石油相談役

1999年3月30日17時25分、慢性腎不全のため、死去。78歳没[1]。生前の自宅は東京都狛江市にあり、告別式中野区宝仙寺で行われた[1]

略歴

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c 「宮崎仁氏」読売新聞1999年4月1日付朝刊、東京版社会面39ページ
  2. ^ a b c 『大蔵省人名録:明治・大正・昭和』大蔵財務協会、1973年1月発行、172頁
  3. ^ 本田靖春『日本ネオ官僚論(続)』講談社、1974年1月発行、56頁
  4. ^ 『職員録 昭和31年版』大蔵省印刷局、1956年1月発行、313頁
  5. ^ 『職員録 昭和34年版』大蔵省印刷局、1959年1月発行、343頁
先代
矢野智雄
経済企画庁総合計画局長
1972年 - 1974年
次代
小島英敏
先代
新田庚一
経済企画事務次官
1974年 - 1976年
次代
小島英敏