宝塚市学童誘拐事件
この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。 |
宝塚市学童誘拐事件(たからづかしがくどうゆうかいじけん)は、兵庫県宝塚市で1980年(昭和55年)1月23日に発生した身代金目的の誘拐事件。
概要
[編集]被害者は豊中市の私立小学校に通う小学1年生の男児(当時7歳)で、宝塚市の歯科医師の長男。下校時、阪急中山駅(現在の中山観音駅)付近で誘拐される。1月23日16時40分、歯科医師宅に容疑者から身代金3千万円の要求の電話が入る。同日20時36分、県警記者クラブに属する一部の新聞社と連絡が取れないため、報道協定の仮協定成立。その後、本協定が結ばれる。1月24日9時すぎ、立地条件の良さ(周囲は人や車の動きが激しく、記者団の出入りは目立ちにくい上、直売所はいわば身内。宝塚署も被害者宅も近い)から、読売新聞本社および支局の前線待機本部を宝塚直売所に設置。1月25日、8回におよぶ電話での取引の末15時前、武庫川の堤防で兵庫県警の自動車警ら隊が容疑者を緊急逮捕。被害者は、両手、両足を縛られ、口と目にガムテープを貼られた状態で犯人の車のトランクに入れられており、47時間の監禁の末に保護。同日15時半、兵庫県警は報道協定解除を宣言。
なお職務質問により被疑者逮捕にこぎつけた自動車警ら隊の隊員2人は、警察庁長官賞詞を受け一階級特進となった。
しかし、報道協定解除前に容疑者逮捕の瞬間を読売本社のヘリコプターが現場上空から撮影したことで、協定違反に問われた読売新聞は兵庫県警察記者クラブから無期限(実質3ヶ月間)出入り禁止処分を受けた。
容疑者・犯行の動機
[編集]容疑者は喫茶店経営を夢見ており、サラリーマン生活をやめると喫茶店のバーテン、雇われマスターの経験を積み、大阪市内で自分の店を持つまでにこぎつけた。しかし、知人の頼みで300万円の手形を貸したが、知人が決済できないことから、知人と共謀して、韓国人から2000万円を騙し取った。それが暴力団に露見し、組員の目を逃れるために喫茶店を閉め、親子3人(容疑者とその妻・息子一人)、箕面市内で隠れるようにして暮らす。結局、喫茶店の利権、遺産、また実兄からも借金をして、韓国人に騙し取った2000万円を返済する。その後、定職にも就けずに生活費にも事欠き、子供の授業料も滞納するところまで追い詰められ、誘拐を計画。自宅にあった子供の学園の名簿からPTA会長である歯科医宅を見つけ[1]、犯行に及ぶ。容疑者の息子は被害者と同級生だった。
映画
[編集]脚注
[編集]- ^ 当時は個人情報保護の意識が薄く、法規制も無かったので、生徒やその家族に配布される簡易的な学校名簿にすら詳細な住所まで記載されているのが普通だった。
参考文献
[編集]- 「誘拐報道」(1981年、新潮社発行、読売新聞大阪社会部著)