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安西景益

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
安西景益
時代 平安時代後期-鎌倉時代初期
生誕 不明
死没 不明
別名 三郎[1]
氏族 安西氏
父母 父:安西朝景[1]
兄弟 明景[1][2]
明景[1][2]
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安西 景益(あんざい かげます)は、平安時代後期から鎌倉時代初期の武将

経歴・人物

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安房国丸御厨を本拠とする在地領主[3]。父の安西朝景あるいは安西常景は、保元の乱の際に源義朝に従って功を挙げたという[1]。また、幼少時の源頼朝と仲が良かったという[4]。その縁から治承4年(1180年8月29日、頼朝が安房へ敗走して来る[5]と、翌月の9月1日、頼朝は国中の一族と在庁官人を呼び集めるようにと景益に手紙を送る[4]9月4日、景益は頼朝からの手紙に従い、一族と在庁官人を2・3人を引き連れて頼朝の宿泊所に参じ、「安易に上総広常の元へ行くべきではない。長狭常伴のような手柄ばかりを狙う連中が沢山いる。迎えに来させた方が良い。」と伝え、使者として和田義盛を上総広常の元へ、藤九郎盛長を千葉常胤の元へ遣わせ、それぞれ頼朝の元へ来るよう伝える[6]など頼朝の安房・総州経略に貢献する[1]寿永元年(1182年8月11日、頼朝の妻北条政子が産気を催すと無事な出産を祈るために洲崎神社に参る[7]頼家は翌日生まれた。元暦元年(1184年8月8日には源範頼平家追討軍に参加し、西海に出陣する[8]。翌年の元暦2年(1185年1月26日には豊後国へ渡る[9]。のち建久6年(1195年)3月には頼朝の上洛に従った[1]

登場作品

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g 安田元久編『鎌倉・室町人名事典』新人物往来社、p.47(1985)
  2. ^ a b 吾妻鏡』元暦元年八月大八日甲子条「參河守範頼爲平家追討使赴西海。午尅進發。旗差旗巻之。一人。弓袋一人。相並前行。次參州。著紺村濃直垂。加小具足。駕栗毛馬。次扈從輩一千餘騎。並龍蹄。所謂。北條小四郎。足利藏人義兼。武田兵衛尉有義。千葉介常胤。境平次常秀。三浦介義澄。男平六義村。八田四郎武者知家。同太郎朝重。葛西三郎淸重。長沼五郎宗政。結城七郎朝光。藤内所朝宗。比企藤四郎能員。阿曾沼四郎廣綱。和田太郎義盛。同三郎宗實。同四郎義胤。大多和次郎義成。安西三郎景益。同太郎明景。大河戸太郎廣行。同三郎。中條藤次家長。工藤一臈祐經。同三郎祐茂。天野藤内遠景。小野寺太郎道綱。一品房昌寛。土左房昌俊以下也。武衛搆御棧敷於稻瀬河邊。令見物之給云々。」
  3. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『安西景益』 - コトバンク
  4. ^ a b 吾妻鏡』治承四年九月大一日条「武衛可有渡御于上総介廣常許之由被仰合。北條殿以下各申可然之由。爰安房國住人安西三郎景益者。御幼稚之當初。殊奉昵近者也。仍最前被遣御書。其趣。令旨嚴密之上者。相催在廳等。可令參上。又於當國中京下之輩者。悉以可搦進之由也。」
  5. ^ 吾妻鏡』治承四年八月小廿九日条「武衛相具實平。棹扁舟令着于安房國平北郡獵嶋給。北條殿以下人々拝迎之。數日欝念。一時散開云々。」
  6. ^ 吾妻鏡』治承四年九月大四日条「安西三郎景益依給御書。相具一族并在廳兩三輩參上于御旅亭。景益申云。無左右有入御于廣常許之條不可然。如長狹六郎之謀者。猶滿衢歟。先遣御使爲御迎可參上之由。可被仰云々。仍自路次。更被廻御駕渡御于景益乃宅。被遣和田小太郎義盛於廣常之許。以藤九郎盛長。遣千葉介常胤之許。各可參上之趣也。」
  7. ^ 吾妻鏡』壽永元年八月大十一日条「及晩。御臺所有御産氣色。武衛渡御。諸人群集。又依此御事。在國御家人等。近日多以參上。爲御祈祷。被立奉幣御使於伊豆筥根兩所權現并近國宮社。〔中略〕同國洲崎社 安西三郎」
  8. ^ 吾妻鏡』元暦元年八月大六日条「晴。參河守範頼爲平家追討使赴西海。午尅進發。」
  9. ^ 吾妻鏡』元暦二年正月大廿六日条「惟隆。惟榮等。含參州之命。献八十二艘兵舩。亦周防國住人宇佐郡(那)木上七遠隆献兵粮米。依之參州解纜。渡豊後國云々。」