安禅寺 (古河市)
安禅寺 | |
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所在地 | 茨城県古河市磯部462 |
位置 | 北緯36度09分50.4秒 東経139度44分26.3秒 / 北緯36.164000度 東経139.740639度座標: 北緯36度09分50.4秒 東経139度44分26.3秒 / 北緯36.164000度 東経139.740639度 |
山号 | 能江山 |
宗派 | 曹洞宗 |
創建年 | 寛政6年(1465年) |
開山 | 簗田持助 |
開基 | 能山聚藝 |
正式名 | 能江山 寿祥院 安禅寺 |
文化財 | 簗田氏墓所(古河市指定文化財・史跡) |
法人番号 | 3050005005631 |
安禅寺(あんぜんじ)は、茨城県古河市磯部にある曹洞宗の寺院。古河公方重臣・簗田氏ゆかりの寺院である。
歴史
[編集]戦国時代の武将だった古河公方重臣・簗田河内守持助の開基、隣接する五霞町の東昌寺二世・能山聚藝の開山により、寛政6年(1465年)に創建された。寛文12年(1672年)に記された当寺『由緒書』によれば、開山にあたった能山の名前から山号をとり、簗田持助の法名「寿祥院殿勝岩利公大禅定門」を院号として、「能江山寿祥院安禅寺」と称した。また、開山直後に能山は東昌寺二世になったため、その後は東昌寺の住持が当寺の住持を兼ね、管理のため鑑司が置かれていたという。[1] [2]
安禅寺の院号を「金剛院」とした文書も当寺に残されている。金剛院は簗田持助の子・成助の法名である。持助だけではなく、成助の菩提寺だった可能性もある。[3]
寺が開かれた磯部は、簗田氏の本拠・関宿城からは北東におよそ8km、同様に簗田氏の拠点となった水海城からも北東におよそ4km離れており、古河公方の古河城からは南西におよそ5kmなので、水海城と古河城の中間地点である。また、常陸川の流頭部となった釈迦沼に近く、関宿城・水海城と水上交通で直結した[4]。
『由緒書』によれば、執筆時の「七、八十年前」すなわち1592~1602年頃に、火災により全焼。この時期には、豊臣秀吉の小田原攻めにともなう戦火で、水海城下にあった諸寺院も焼亡しており、当寺の火災もこれに関連している可能性がある。火災の10年後には大安寿穏が鑑司になり、安禅寺を再興。このとき大安は安禅寺二世に任じられ、住持職が復活した。[2]
江戸時代には、境内地7反、畑地1反4畝を所有していた記録がある(安禅寺文書・『磯部村指出書上帳』)[2]。明治2年(1869年)には年貢を免除された除地が1150坪余、年貢地が高2石余あった。明治3年(1870年)の檀家数は42件であった(『社寺取調類纂』)。[5]
簗田氏の墓
[編集]当寺の『由緒書』によれば、文明14年(1482年)に簗田持助が亡くなったとき、安禅寺に葬るようにとの遺言に従って本堂北方に葬り、塔を安置して「寿祥塔」と名付けたとされている。現在も寿祥塔とその他の五輪塔等が9基残されている。これらは昭和50年ごろ、散在していた五輪塔や宝篋印塔の部材をつなぎ合わせたもので、初期の状態ではないが、各部材の形態から戦国期にさかのぼるものであり、簗田氏一族の墓塔であると考えられている。[6] 「簗田氏墓所」は、平成3年(1991年)6月1日に、古河市指定文化財(史跡)となった。[7]
交通
[編集]- 鉄道
脚注
[編集]- ^ 『総和町史 通史編 原始・古代・中世』 532-537頁(五霞町東昌寺と磯部安禅寺・内山俊身 執筆)
- ^ a b c 『そうわの寺院 II 』 35-36頁(磯部安禅寺・水海普舜院と曹洞禅宗の地方展開・広瀬良弘 遠藤廣昭 執筆)
- ^ 『そうわの寺院 II 』 49-52頁(曹洞宗寺院と簗田氏・長塚 孝 執筆)
- ^ 『そうわの寺院 II 』 11-12頁(磯部安禅寺・水海普舜院と曹洞禅宗の地方展開・広瀬良弘 遠藤廣昭 執筆)
- ^ 『総和町史 通史編 近世』 390-391頁(町内の寺院・磯部村・松本剣志郎 執筆)
- ^ 『総和町史 通史編 原始・古代・中世』 536-537頁(五霞町東昌寺と磯部安禅寺・簗田持助墓塔・内山俊身 執筆)
- ^ 古河市公式サイト「指定文化財・登録文化財」
- ^ 駅西口前「花桃館」(まちなか再生市民ひろば)にて・古河市公式ホームページ 観光・歴史 古河市の観光パンフレット Archived 2015年9月23日, at the Wayback Machine.より
参考文献
[編集]- 総和町史編さん委員会編 『総和町史 通史編 原始・古代・中世』 総和町、平成17年(2005年)
- 総和町史編さん委員会 編 『総和町史 通史編 近世』 総和町、平成17年(2005年)
- 総和町教育委員会・町史編さん室 編集・発行 『そうわの寺院 II 』 総和町、平成5年(1993年)