安保実光
安保 実光(あぼ さねみつ、永治2年(1142年)? - 承久3年6月14日(1221年7月5日))は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武蔵国丹党の武将。通称二郎。刑部丞。没した歳は80歳とも伝えられる。丹党系安保(阿保)氏の祖。
略歴
[編集]父は秩父(丹)綱房(のちの新里恒房)で、その次男として二郎実光は生まれる。その後、父から武蔵国賀美郡(現児玉郡西部域)の安保郷(現神川町元阿保)の地を譲られ、居住し、安保(阿保)氏を称した。子息は、安保五郎左衛門尉実房、安保六郎兵衛光重、安保七郎左衛門尉実員などで、この内、五郎実房と六郎光重は、建久元年(1190年)の源頼朝の入洛(京へ行く)時の随兵として、『吾妻鏡』に名が確認できる。
実光の戦歴は、一ノ谷の戦い、奥州合戦、承久の乱で、『吾妻鏡』にも確認できる。
1184年(壽永3年)の一ノ谷の戦いでは源範頼の配下で平家側と戦った[1]。
1221年(承久3年)の承久の乱の時、既に実光は老齢の身であったが、北条政子の命で参戦した。実光が属した勢力は、美濃の摩免土で官軍の第一線を破り、数十名の関東武士と共に京の宇治川へ向った。 そして宇治川の戦いで溺死する事となる[2]。宇治川を渡ろうとする前、塩谷家経(児玉党系塩谷氏の2代目)と語り合ったとされる。家経の方も71歳と言う老齢の身であり、実光と同様、重い鎧を着たまま荒れ狂う宇治川の激流に流され、溺死した。これらは老いてもなお武蔵武士の勇ましさを示す事となる。
子孫
[編集]安保氏の直系の宗家(惣領家)である安保宗実(入道して道堪)は、鎌倉幕府の滅亡と共に滅び、結果として、実光の七男(実員)の子孫である安保光泰、つまり安保氏の分家筋が宗家を継ぐ形となり、安保氏は鎌倉時代以後も栄える事となる。
脚注
[編集]- ^ “安保実光「一の谷の戦い」吾妻鏡”. 本庄児玉見て歩き (2015年). 2022年5月20日閲覧。
- ^ “『吾妻鏡』 宇治川の渡河作戦で安保実光死亡 上里町の歴史”. 上里町. 2022年5月20日閲覧。