コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

安井てつ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
安井哲子から転送)
やすい てつ

安井 てつ
生誕 (1870-03-24) 1870年3月24日明治3年2月23日
日本の旗 日本 東京府駒込曙町(現・東京都文京区本駒込
死没 (1945-12-02) 1945年12月2日(75歳没)
連合国軍占領下の日本の旗 連合国軍占領下の日本 東京都
墓地 多磨霊園
国籍 日本の旗 日本
出身校 高等師範学校女子師範学科
職業 教育者、雑誌編集者
著名な実績 東京女子大学学長
代表作 『久堅町にて』
影響を受けたもの 海老名弾正新渡戸稲造
影響を与えたもの 二階堂トクヨ青山なを
宗教 キリスト教
テンプレートを表示

安井 てつ(やすい てつ、1870年3月24日明治3年2月23日) - 1945年昭和20年)12月2日)は、日本の教育者女子教育に力を注ぎ、新渡戸稲造とともに東京女子大学を創立した。東京都出身。

生涯

[編集]

東京府駒込曙町(現在の東京都文京区本駒込)の旧古河藩藩士の長女として生まれる[1]東京女子高等師範学校お茶の水女子大学の前身)卒業後は岩手県尋常師範学校や母校で教鞭をとり、1896年、文部省留学生としてイギリスケンブリッジ大学オックスフォード大学で教育学を学ぶ[2]。帰国後に海老名弾正から洗礼を受けるも、母校から棄教を迫られタイラーチニー女学校英語版に転出、のちウェールズ大学で学び、帰国後に学習院津田梅子女子英学塾で教える[2]。また女性教養誌『新女界』(1909年創刊)の主筆も務めた[3]。1918年に新渡戸稲造に請われて東京女子大学の設立に参加、1923年に新渡戸の跡を継ぎ2代目学長に就任し、1940年まで務めた[4]

教え子に二階堂トクヨ[5]青山なを[6]等がいる。

安井てつにとって新渡戸稲造はクリスチャンの同志でもあり、片思いの相手でもあったようだと弟の安井勉は語っていた。

子供がいなかったので、甥の安井達彌が台湾から進学の為東京に来た際、東京女子大内の自宅に引き取り彼の世話を数年間していた。

1943年より東洋英和高等女学校(現・東洋英和女学院中学部・高等部)で校長事務取扱を務める[7]

1945年、電車での通勤時に転倒して脚を骨折した。その年の12月2日に76歳で死去[2]

著作

[編集]
晩年の安井てつ

脚注

[編集]
  1. ^ 『安井てつの女子高等教育論』宮田幸枝、教育科学研究12(首都大学東京)、1993年7月。
  2. ^ a b c 安井てつ 「歴史が眠る多磨霊園」 小村大樹編集、監修。
  3. ^ 『日本キリスト教歴史大事典』 教文館、1988年、701頁
  4. ^ 創立期の人々 東京女子大学。
  5. ^ 曽我芳枝・平工志穂・中村有紀「女性におけるスポーツ・運動実践 東京女子大学の体育を中心として」『東京女子大学紀要論集. 科学部門報告』第65号、東京女子大学論集編集委員会、2015年。
  6. ^ 『安井てつ先生追想録』 安井てつ先生記念出版刊行会、1966年8月。
  7. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)

関連文献

[編集]
  • 青山なを著 『安井てつ伝』 東京女子大学同窓会、1949年6月 / 大空社〈伝記叢書〉、1990年4月、ISBN 4872363809
  • 青山なを編 『安井てつ先生追想録』 安井てつ先生記念出版刊行会、1966年8月
  • 青山なを著 『青山なを著作集 第三巻 安井てつと東京女子大学』 慶応通信、1982年11月、ISBN 4766402715

外部リンク

[編集]
公職
先代
藤井利誉
日本の旗 東京女子高等師範学校附属幼稚園主事
1912年 - 1917年
主事事務取扱
1910年 - 1912年
次代
倉橋惣三
学職
先代
新渡戸稲造
東京女子大学
1923年 - 1940年
次代
石原謙
その他の役職
先代
東洋永和女学校長
脇山司家太
東洋永和高等女学校長事務取扱
1944年 - 1945年
東洋永和女学校長事務取扱
1942年 - 1944年
次代
東洋永和女学院長事務取扱
小野徳三郎
先代
東洋永和幼稚園師範科を改組)
東洋永和保姆養成所長
1944年 - 1945年
次代
小野徳三郎