守屋徳夫
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守屋 徳夫(もりや のりお[1]、明治21年(1888年)1月27日[2] - 没年不明)は、日本の実業家。樺太水産(株)社長[3]。樺太魚菜配給(株)取締[3]。樺太水産物統制販売組合監事[3]。
元衆議院議員、元宮城県塩竈市長守屋栄夫の弟。外交官守屋和郎の兄。元防衛事務次官守屋武昌の叔父。
経歴
[編集]宮城県遠田郡富永村(のち古川市、現大崎市)出身。守屋徳郎の二男[3]。守屋栄夫の弟[3]。守屋和郎の兄[3]。
明治42年(1909年)宮城師範学校卒業、大正4年(1915年)広島高等師範学校卒業[2]、大正7年(1918年)京都帝国大学社会科卒業[3]。台湾総督府視学[3]・台北高等商業学校教授[2]。旭紡秘書課長[3]。朝鮮殖産銀行勤務[3]。東洋拓殖資金課長[3]。日魯漁業常任監査役[3]
人物像
[編集]趣味は打球、文学[3]。宗教は曹洞宗[3]。住所は東京市小石川区林町[3]。
家族・親族
[編集]守屋家
[編集]- 最初の妻・まさみ
- 明治25年(1892年) - 大正8年(1919年)9月25日没[4]
- 2番目の妻・きう(鈴木重兵衛次女[5])
- 明治33年(1900年)9月[5] - 没
- 3番目の妻・よう(宮城県、菊地辧蔵二女[3])
著書
[編集]- 『倫敦より紐育へ』(帝国地方行政学会朝鮮本部、1930.5)[6]