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守屋徳夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

守屋 徳夫(もりや のりお[1]明治21年(1888年1月27日[2] - 没年不明)は、日本実業家。樺太水産(株)社長[3]。樺太魚菜配給(株)取締[3]。樺太水産物統制販売組合監事[3]

元衆議院議員、元宮城県塩竈市守屋栄夫の弟。外交官守屋和郎の兄。元防衛事務次官守屋武昌の叔父。

経歴

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宮城県遠田郡富永村(のち古川市、現大崎市)出身。守屋徳郎の二男[3]守屋栄夫の弟[3]守屋和郎の兄[3]

明治42年(1909年)宮城師範学校卒業、大正4年(1915年)広島高等師範学校卒業[2]、大正7年(1918年京都帝国大学社会科卒業[3]台湾総督府視学[3]台北高等商業学校教授[2]。旭紡秘書課長[3]朝鮮殖産銀行勤務[3]東洋拓殖資金課長[3]日魯漁業常任監査役[3]

人物像

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趣味は打球文学[3]宗教曹洞宗[3]。住所は東京市小石川区林町[3]

家族・親族

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守屋家

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宮城県遠田郡富永村(のち古川市、現大崎市)、塩竈市東京都
  • 最初の妻・まさみ
明治25年(1892年) - 大正8年(1919年)9月25日没[4]
  • 2番目の妻・きう(鈴木重兵衛次女[5]
明治33年(1900年)9月[5] - 没
  • 3番目の妻・よう(宮城県、菊地辧蔵二女[3]
明治36年(1903年)11月生[3] - 没

著書

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  • 『倫敦より紐育へ』(帝国地方行政学会朝鮮本部、1930.5)[6]

脚註

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  1. ^ 倫敦より紐育へ|NDLサーチ - 国立国会図書館
  2. ^ a b c d e 『宮城県名士寳鑑』宮城県名士寳鑑発刊事務所、1940年、p.523。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『人事興信録. 第14版』下(昭和18(1943年))モ一八
  4. ^ 守屋好 著、守屋栄夫 編『貞室好容録 : 守屋好の思出』1962年、p.1061。
  5. ^ a b 猪野三郎 編『現代人事調査録』帝国秘密探偵社、1925年、ス27頁。
  6. ^ CiNii