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守屋和郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
守屋和郎, 1947年。

守屋 和郎(もりや わろう、明治26年(1893年11月29日[1] - 昭和52年(1977年))は、日本外交官。元駐アフガニスタン公使[2]

元衆議院議員、元宮城県塩竈市守屋栄夫の弟。元防衛事務次官守屋武昌の叔父。

経歴

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宮城県遠田郡富永村(のち古川市、現大崎市)出身[3]。守屋徳郎の三男[3]。旧制古川中学(現宮城県古川高等学校)卒業。旧制二高を経て[3]大正6年(1917年東京帝大法科を卒業し逓信省に勤務の後関東庁参事官に転じ次いで外務省事務官となる[4]

英国在勤大使館二等書記官同一等書記官[4]中華民国在勤公使館一等書記官福州領事大使館一等書記官大使館参事官満州国在勤を歴任し昭和13年(1938年特命全権公使に任じアフガニスタン国駐箚被仰付昭和15年(1940年)退官す[4]。昭和19年(1944年台湾総督府外事部長[5]

満州国参事官。→終戦時、当時の中国中央政府首席蔣介石総統と特命全権日本代表として敗戦処理について交渉。

人物像

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政治学者吉野作造と交流があった[3]戦後、吉野と親しい友人や弟子たちが組織した「吉野博士記念会」に和郎は名を連ねている[3]

趣味は読書打球[2]囲碁[4]宗教神道[2]。住所は東京市小石川区大塚仲町[2]

家族・親族

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守屋家

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宮城県遠田郡富永村(のち古川市、現大崎市)、塩竈市東京都
明治28年(1895年)11月生[4] - 没
  • 男・経郎[4]
大正9年(1920年)7月生[4] - 没

栄典

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著書

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  • 『アフガニスタン』(守屋和郎著、岡倉書房、1941.11、新東亞風土記叢書 6)[14]
  • 『滿洲國に於ける現下の諸問題』(守屋和郎述、日本外交協會、1937.2)[14]

脚注

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  1. ^ 『大衆人事録 第14版 東京篇』帝国秘密探偵社、1942年、p.999。
  2. ^ a b c d 『人事興信録. 第14版』下(昭和18(1943年))モ一七
  3. ^ a b c d e 吉野作造周辺の人々
  4. ^ a b c d e f g h 『人事興信録. 第13版』下(昭和16(1941年))モ一八
  5. ^ 近代日本文官官僚制度の中の台湾総督府官僚 (王)中京大学
  6. ^ 『官報』第2313号、1920年4月21日。
  7. ^ 『官報』第3945号、1925年10月16日。
  8. ^ 『官報』第771号、1929年7月25日。
  9. ^ 『官報』第2178号、1934年4月9日。
  10. ^ 『官報』第2212号、1934年5月19日。
  11. ^ 『官報』第3456号、1938年7月12日。
  12. ^ 『官報』第3748号、1939年7月5日。
  13. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  14. ^ a b CiNii
先代
蜂谷輝雄
台湾総督府外事部長
1944年-1945年
次代
廃止