宇都母知神社
宇都母知神社 | |
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所在地 | 神奈川県藤沢市打戻3012 |
位置 | 北緯35度23分31.3秒 東経139度25分17.7秒 / 北緯35.392028度 東経139.421583度座標: 北緯35度23分31.3秒 東経139度25分17.7秒 / 北緯35.392028度 東経139.421583度 |
主祭神 | 天照大御神、稚産霊神、若日下部命 |
社格等 | 式内社(小)、郷社(旧社格) |
創建 | 不詳 |
本殿の様式 | 神明造 |
例祭 | 9月15日 |
地図 |
宇都母知神社(うつもちじんじゃ)は、神奈川県藤沢市打戻に鎮座する神社。延長5年(927年)の『延喜式神名帳』に記載されている相模国の延喜式内社十三社の内の一社(小社)とされる[1]。
祭神
[編集]由緒・歴史
[編集]当社の創建時期は定かでないが、雄略天皇3年[2](皇紀1119年[3][注釈 1])に厳粛な祭祀が執り行われたという記録がある(『日本総国風土記』)。また、これまでに転社(移転)の記録はないが、同風土記では当社の鎮座地が「相模国鷹倉郡宇都母知郷」とある[4]。なお、『延喜式神名帳』では「相模国十三座(式内社)の内 高座郡六座の内の一座 宇都母知神社」と記されている。
天慶2年(939年)、大和国泊瀬より若日下部命の尊霊を遷座、相殿に合祀した。正応3年(1290年)、鎌倉幕府八代将軍久明親王の執権である北条貞時が社殿を改築、さらに寛永4年(1627年)、当地の領主である高木主水源正次が社地900坪(約3000m2)を寄進して本殿の改築を行なっている。当社の呼称として、江戸時代には「大神宮」「神明宮」とも称されていた。
その後、明治6年(1873年)12月には郷社(近代社格制度)に列せられた。大正12年(1923年)の関東大震災により社殿(安政5年〈1858年〉造)を含み全壊したが、3年後の大正15年(1926年)9月には全復旧し現在に至っている[4]。
境内を西側に出て道を挟んですぐのところにある鐘楼の釣鐘は、昭和20年(1945年)の春に太平洋戦争の物資回収により献納されたため暫く設置のされないままだったが、昭和50年(1975年)になって再建された。また、境内の全域が風致林の指定を受けており、昭和49年(1974年)には自然環境保全地域に指定されている[4]。
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拝殿
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鐘楼
境内社
[編集]境内には当社の他に以下の社(境内社)がある。
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菅原神社
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稲荷神社
祭礼
[編集]溜池
[編集]打戻字大平2009番地には社有地の溜池(約150m2)がある[4]。
地名の由来
[編集]当地(打戻)の地名の由来として、宇都母知神社の「宇豆毛遅」(うずもち)が訛って打戻(うちもどり)となったという説がある。また、古語において「うつ」と「もち」にはどちらも「小さな盆地」という意味があり、当地の地形からまず「ウツモチ」と呼ばれるようになって「うちもどり」に転化したともされる。この他には、海老名の刀鍛冶屋、五郎正宗が鎌倉へ向かう道中この地で休憩した際に、これから納める刀の出来がよくないことを思い、「家に戻って打ち直した」ことから地名となったとする説もある[5][6]。
交通
[編集]備考
[編集]社務所には人がいないことが多く電話による問い合わせ等ができない場合もあるので、御朱印などの用がある場合は祭礼や正月など行事が行われる時期に行く方が確実である。
また、境内にはトイレが設置されている。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ “『延喜式第2(巻第八、巻第九、巻第十)』日本古典全集刊行会、昭和4年。73コマ。(国立国会図書館デジタルコレクション)”. 2018年9月3日閲覧。
- ^ “『日本総国風土記』(国立国会図書館デジタルコレクション)”. 2018年9月4日閲覧。
- ^ 当神社境内の石碑
- ^ a b c d e “宇都母知神社”. 神奈川県神社庁. 2017年9月20日閲覧。
- ^ “御所見の歴史:地名の由来”. 2014年8月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年8月29日閲覧。 - 藤沢市
- ^ 打戻のおはなし(公益財団法人 藤沢市まちづくり協会)
参考文献
[編集]- 宇都母知神社『社頭掲示板』、神奈川県神社庁「宇都母知神社」のページなど
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 宇都母知神社 公式ホームページ
- 宇都母知神社(神奈川県神社庁)