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宇留野義元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
宇留野義元
時代 戦国時代
生誕 永正7年(1510年[1]
死没 天文9年3月14日1540年4月30日[2]
別名 部垂義元、通称:四郎
戒名 勝岩常俊大禅定門[1][3]
主君 佐竹義篤
氏族 佐竹氏宇留野氏
父母 父:佐竹義舜、母:岩城親隆[1]
養父:宇留野義久
兄弟 岩城由隆正室、今宮永義佐竹義篤
義元江戸忠通正室、佐竹義里
一渓(古内氏の祖)
大関高増正室、竹寿丸
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宇留野 義元(うるの よしもと)は、戦国時代武将常陸国部垂城主。

生涯

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永正7年(1510年)、常陸国の戦国大名佐竹氏15代当主・佐竹義舜の子として誕生。

宇留野氏は、佐竹氏13代当主・佐竹義俊の子である宇留野義公を祖とする佐竹氏の庶流にあたる。

はじめ義元は宇留野義久(義公の次男)の養子となり。宇留野氏を継ぐが、享禄2年(1529年)、突如小貫俊通の部垂(へたれ)城を攻略、部垂義元と名乗る。佐竹氏宿老の小貫氏を攻撃したことは、佐竹宗家の兄・義篤への挑発とみられ兄弟間の争いとなる。しかし、義篤は江戸氏小田氏の争いに介入するなどしており、状況を打開できずにいた。そのような中で天文4年(1535年)、高久義貞が義元に呼応して挙兵する。義貞はすぐに降伏したが、この機に義元は挙兵し、小瀬(現在の茨城県常陸大宮市)で戦い、翌年に佐竹氏と和睦した。しかしこの和睦は破られ、天文7年(1538年)と翌天文8年(1539年)において部垂にて義篤と戦った。

天文9年(1540年)、兄・義篤は前年から介入していた下野国那須氏那須政資高資父子の抗争から軍勢を撤退した際に、その帰路で突然に部垂城を急襲した。これは、義元の家臣・大賀外記が城の大手門の橋の普請に不満を持つ義元に罵倒されたことを恨み出奔、義篤に城普請は謀反の準備との讒言したためといわれている。この時僅かに50名の城兵しかおらず、義元は与した小場義実、養父・義久らと自刃し落城した。嫡男・竹寿丸は逃げることには成功するが、落城前に裏切った黒沢大学に捕えられ斬殺された。この12年にも及ぶ兄弟の争いを部垂の乱、または部垂十二年の乱という。

義元に与した長兄・今宮永義小場氏前小屋氏らは許され、佐竹宗家の重臣となった。義元の家臣団は部垂衆として小場義忠の指揮下の小場寄騎衆に組み入れられ、慶長7年(1602年)に佐竹氏が出羽国への国替え後は、比内新田村・淀川村などを経て最終的には小場氏が城代を勤めた大館城下に移った。なお部垂衆は久保田藩主の家臣(大館給人)であり、小場氏(後の大館西家の佐竹氏)の家臣ではない。

脚注

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  1. ^ a b c 『佐竹家譜』
  2. ^ 『史料綜覧』第9編之910 82頁
  3. ^ 『新編常陸国誌』

出典

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  • 『後奈良天皇記』(「天文八年自八月廿四日至十月」・「天文九年自三月至五月」)
  • 『佐竹家譜』
  • 『新編常陸国誌』
  • 『常陸三家譜』(宇留野の項)