宇田川準一
宇田川 準一 | |
---|---|
生誕 | 1848年10月5日 |
死没 | 1913年3月8日(64歳没) |
研究分野 | 物理学 |
プロジェクト:人物伝 |
宇田川 準一(うだがわ じゅんいち、1848年10月5日(嘉永元年9月9日) - 1913年(大正2年)3月8日)[1]は、江戸時代末期の洋学者、明治時代の理化学教育者及び理化学教科書の翻訳・編集者、陸軍技師(測量)。旧名は宇田川榕之介・宇田川榕精。従七位勲七等。恒藤規隆(農学博士・ラサ島燐礦会社社長)は義兄。
経歴
[編集]江戸詰の美作国津山藩医宇田川興斎(宇田川榕菴の養嗣子)の長男として生まれる[2]。1861年(文久元年)に蘭方医坪井信良に師事し、医学・蘭学を修業[2]。1868年(明治元年)より津山藩学教授を務めた[3]。1869年(明治2年)神戸へ赴き、神戸洋学校で箕作麟祥に学び、同年江戸に帰る師に従い、神田神保町の麟祥の塾に入門[2][4]。まもなく、大阪理学校(大坂開成所分局に改編、1872年廃止)に入り、お雇い外国人リッテル担当の理化学講座を専攻(高峰譲吉と同窓)した[2][5]。
卒業後、1873年(明治6年)6月、元津山藩士児玉武寛(のち司法省属)とともに東京の飯田町に私塾九段学舎(英学・数学)を開塾[6]、同年12月には小学教則・教科書の選定編纂事業も担った東京師範学校に雇われた。1874年(明治7年)1月に正式に文部省十等出仕となり、4月から東京師範学校四等教諭に任じられた(1876年4月より三等教諭)[3]。1877年(明治10年)8月から職制変更に伴い訓導となり、翌年6月より器械室幹事も兼務したが、病を得て1879年(明治12年)3月に辞職[3]。1881年(明治14年)7月に家督を相続[2]。1882年(明治15年)に群馬県師範学校三等教諭を嘱せられたが、1885年(明治18年)12月、正式に中学校師範学校教員免許状(物理)を取得後に退職[3][7]。
1887年(明治20年)5月、父興斎が死去。同年10月、陸軍省採用試験に合格し、参謀本部測量局地図課に六等技手として配属[3]。1889年(明治22年)4月には前年独立した陸地測量部付の陸地測量手(判任官六等・製図科配属)に任じられた[3]。1908年(明治41年)の退職時は参謀本部随地測量部付三等測量手。
1895年(明治28年)12月には、早世した実弟宇田川三郎(外務省属)の子・鳳一郎を養嗣子とした[8]。1910年(明治43年)11月、宮内省より故宇田川玄随に正四位、故宇田川玄真に従四位の位階・位記が贈られたことから[9]、翌年1月、墓所であった浅草田島町誓願寺の長安院にて、準一が祭主として贈位報告祭を執行[10]。
晩年は妻の兄・恒藤規隆の縁故によりラサ島燐礦会社(現ラサ工業)重役に就任した[4]。
1913年(大正2年)3月没。享年66(数え)。墓所は雑司ヶ谷霊園。
翻訳・編集・校正
[編集]- 『脱影竒観和解 陽影之部』徳貞(John Dudgeon)著・宇田川準一訳、自筆(書写年不明)
- 『化学要語集』宇田川準一編、自筆(書写年不明)
- 『地学初歩和解』固児涅爾(Sophia S. Cornell)原撰・宇田川榕精訳、風雲堂、1867年(改題『万国地学和解』1868年)
- 『化学便蒙』宇田川榕精訳、自筆、1868年
- 『化学摘要』宇田川準一訳、自筆、1870年
- 『格物入門和解 化学之部』全4巻、丁韙良(W. A. P. Martin)著・宇田川訳、1874年(北門社によるシリーズ出版)
- 『物理全志』全10巻、宇田川訳・市川盛三郎校閲、煙雨楼、1875年
- 『物理全志字引』橋爪貫一編・宇田川校正、青山堂、1876年
- 『元素化合量一覧表』宇田川編、1878年
- 『改正物理全志』宇田川訳・平岡(市川)盛三郎校閲、煙雨楼、1879年
- 『物理全志図』宇田川訳・平岡(市川)盛三郎校閲、煙雨楼、1879年
- 『小学口授 物理談』宇田川編・大槻修二校正、柳原喜兵衛他、1880年
- 『小学生理訓蒙 附養生法』上下巻、宇田川編述、同盟舎、1881年
- 『物理初階』上下巻、宇田川抄訳、青海堂、1881年
- 『物理小学』宇田川抄訳、青海堂、1881年
- 『改正物理小誌』上中下巻、宇田川編訳、石川治兵衛、1881年
- 『化学階梯』全4巻、ロスコー著・宇田川訳、東京書林、1881年
- 『理化小試 附器械・薬品』クーレー著・直村典訳・宇田川校正、文部省、1882年
- 『小学物理問答』上中下巻、宇田川編訳、文学社、1882年
- 『小学読本』全5巻、宇田川訳、小笠原東陽校正、文学社、1882年
- 『改正物理小誌字引』宇田川校閲、文学社、1883年
- 『新撰小学経済論』上下巻、宇田川・久米井隆吉編訳、文学社、1883年
- 『物理小誌付録 簡易試験法』宇田川編、文学社、1884年
- 『物理学』宇田川訳、煙雨楼・青海堂、1888年
栄典
[編集]位階
勲章等
- 1895年(明治28年)11月18日 - 明治二十七八年従軍記章(日清戦争)[12]
- 1895年(明治28年)12月7日 - 勲八等瑞宝章(明治二十七八年戦役ノ功)[13]
- 1902年(明治35年)5月10日 - 明治三十三年従軍記章(北清事変)[14]
- 1902年(明治35年)12月27日 - 勲七等瑞宝章[15]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 青色桐葉章(明治三十七八年戦役ノ功)及び明治三十七八年従軍記章(日露戦争)[16]
脚注
[編集]- ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus『宇田川準一』 - コトバンク
- ^ a b c d e 『洋学者 宇田川家のひとびと』, p. 162-165
- ^ a b c d e f 「宇田川準一外技手採用の件」添付履歴書
- ^ a b 大日本人名辞書刊行会『大日本人名辞書 上卷』1926年
- ^ 早稲田大学所蔵「大坂開成所生徒等級姓名一覧」
- ^ (神辺靖光 1974, p. 17) 及び東京都公文書館所蔵「宇田川準一他1名より九段学舎開業願出」、早稲田大学図書館所蔵「米国人マンテル雇庸契約書」「九段学舎規則」参照。
- ^ 『官報』1885年12月23日「広告」中学校師範学校教員免許状授与者一覧
- ^ 「月報 参謀本部」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09060185200、明治29年分 月報 参謀本部 監軍部 各都督部(防衛省防衛研究所)
- ^ 『官報』1910年11月17日「叙任及辞令」
- ^ 日本医史学会『中外医事新報』741号(1911年2月)213頁
- ^ 『官報』1907年2月21日「叙任及辞令」
- ^ 『官報』1897年1月16日付録「辞令」
- ^ 『官報』1895年12月19日「叙任及辞令」
- ^ 『官報』1902年11月26日付録「辞令」
- ^ 『官報』1902年12月29日「叙任及辞令」
- ^ 『官報』1907年03月1日付録「叙任及辞令」
参考文献
[編集]- 水田楽男『洋学者宇田川家のひとびと』日本文教出版〈岡山文庫 ; 174〉、1995年。ISBN 4821251744。NDLJP:13407410。
- 「宇田川準一外技手採用の件」添付履歴書、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06080382500、明治20年「貳大日記 10月」(防衛省防衛研究所)
- 「宇田川測量手外2名賞与の件」添付履歴書、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06084664100、明治41年坤「貳大日記12月」(防衛省防衛研究所)
- 神辺靖光「学制期における東京府の私立外国語学校 : その形態と継続状況についての一考察」『日本の教育史学』第17巻、教育史学会、1974年、4-25頁、CRID 1390001205764925056、doi:10.15062/kyouikushigaku.17.0_4、ISSN 03868982。
関連文献
[編集]- 板倉聖宣『かわりだねの科学者たち』仮説社、1987年
- 佐藤光「陸軍参謀本部地図課・測量課の事蹟6 参謀局の設置から陸地測量部の発足まで」『地図』31巻2号、日本地図学会、1993年、 28-46頁
- 金子宏二「宇田川家蔵版物と権利意識について:「地学初歩和解」重板一件にふれて」『早稲田大学図書館紀要 / 早稲田大学図書館紀要編集委員会 編』第41号、早稲田大学図書館、1995年、237-254頁、ISSN 0289-2502、国立国会図書館書誌ID:3305602。
- 岡本正志「日本における物理教育の創始者たち ―物理教育の形成期を探る―」『大学の物理教育』第2003.1巻、日本物理学会、2003年3月、6-10頁、CRID 1390845712967940096、doi:10.11316/peu.2003.1.0_6、ISSN 1340993X。
- 田中啓介、植松英穂「28aYL-1 片山淳吉と宇田川準一 : 熱学的自然観の比較(28aYL 物理学史,領域13(物理教育,物理学史,環境物理))」『日本物理学会講演概要集』第64.1.2巻、日本物理学会、2009年、407頁、CRID 1390001205964728064、doi:10.11316/jpsgaiyo.64.1.2.0_407_4、ISSN 2189-0803。
- 三好正史「犬も歩けば~その7~」『近代日本の創造史』第12巻、近代日本の創造史懇話会、2011年、29-34頁、CRID 1390001205289250176、doi:10.11349/rcmcjs.12.29、ISSN 18822134。