孫其昌
孫其昌 | |
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『満洲建国十年史』(1942年) | |
プロフィール | |
出生: | 1885年(清光緒11年) |
死去: |
1954年 中華人民共和国北京市 |
出身地: | 清盛京将軍管轄区奉天府遼陽州 |
各種表記 | |
繁体字: | 孫其昌 |
簡体字: | 孙其昌 |
拼音: | Sūn Qíchāng |
ラテン字: | Sun Ch'i-ch'ang |
和名表記: | そん きしょう |
発音転記: | スン チーチャン |
孫 其昌(そん きしょう)は、中華民国、満州国の政治家。北京政府、奉天派に属し後に満州国で要人となった。字は鍾舞、仲舞。
事績
[編集]清末の附生。日本に留学し、東京師範学校を卒業した。帰国後は、遼寧師範学校校長、奉天商業学校校長、黒竜江省督軍公署秘書を歴任している。1920年(民国9年)7月、署理黒竜江省教育庁庁長となる。翌年7月、北京政府外交部特派吉林交渉員に転じた。1925年(民国14年)、吉林省財政庁庁長兼永衡官銀号会弁に就任した。1927年(民国16年)5月、吉長道尹に任命されている。張学良が国民政府に易幟した翌年12月、孫は吉林省政府委員となっている。その後、同省建設庁庁長も兼ね、1931年(民国20年)に辞職した[1]。
同年、満州事変(九・一八事変)が勃発すると、孫其昌は熙洽が組織した吉林省政府に加入し、民政庁庁長[2]兼永衡官銀号会弁兼煙酒事務局局長[1]に任じられる。翌1932年(大同元年)3月9日に満州国が正式に成立すると、孫は参議府参議に起用された[3]。同年6月1日、財政部次長の栄厚が満州中央銀行総裁に転じたため、孫がその後任となっている[4]。1933年(大同2年)6月21日に黒竜江省省長へ移り[5]、翌1934年(康徳元年)12月1日に竜江省が成立すると同省省長となった[6]。
1935年(康徳2年)5月21日、孫其昌は満州国財政部大臣に任じられた[7]。1937年(康徳4年)5月7日、民政部大臣に異動し[8]、同年7月1日、改組により民生部大臣となっている[9]。しかし1940年(康徳7年)5月16日、孫は参議府参議に左遷された[10]。満州国の経済政策に対して不満を鳴らしたことが原因とされる[11]。1942年(康徳9年)9月28日までその地位にあった[12]。
1945年(民国34年)8月に満州国が崩壊すると、孫其昌は瀋陽や北平に隠れ住んだ。しかし、中華人民共和国成立後の1951年2月に、北京市公安局に逮捕されてしまう[13]。1954年、孫其昌は処刑された[14]。享年70。
注
[編集]- ^ a b 徐主編(2007)、1532頁。
- ^ 「吉林独立政府成る」『読売新聞』昭和6年(1931年)9月29日。
- ^ 「満州政府の閣員 昨日正式に発表」『東京朝日新聞』昭和7年(1932年)3月11日。
- ^ 郭主編(1990)、1757頁。
- ^ 郭主編(1990)、1762頁。
- ^ 郭主編(1990)、1838頁。
- ^ 「鄭総理辞表を捧呈 張景恵氏に大命降下」『東京朝日新聞』昭和15年(1935年)5月22日夕刊。
- ^ 「満州国内閣改造きょう発表、六大官勇退」『東京朝日新聞』1937年5月8日夕刊。
- ^ 「満州の人事異動 行革に伴い七月発令」『東京朝日新聞』昭和12年(1937年)6月12日。
- ^ 「満州国首脳異動 経済大臣ら十九氏更迭」『大阪毎日新聞』昭和15年(1940年)5月17日。
- ^ 山室(2004)、243頁。
- ^ 「共栄圏の重責完遂へ 満州国大臣全面更迭」『朝日新聞』昭和17年(1942年)9月29日夕刊、1面。
- ^ 「瀋陽“九・一八”歴史博物館」。
- ^ 劉景泉主編(1999)。
参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 山室信一『キメラ-満洲国の肖像 増補版』中央公論新社(中公新書)、2004年。ISBN 4-12-191138-5。
- 劉景泉主編『中国抗日戦争人物大詞典』天津大学出版社、1999年。
- 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌』甘粛人民出版社、1990年。ISBN 7-226-00582-4。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
満州国
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