学校劇
学校劇(がっこうげき)は、学校の児童・生徒によって演じられる演劇。主に小学校・中学校の学校教育の一環として行われる。高等学校では「学校演劇」、大学では「学生演劇」と呼称を区別する場合がある[1]。
概要
[編集]演劇史においては、15〜16世紀のルネサンス期の人文主義のもと、ラテン語学校の生徒が演じた演劇のことを指し、ローマ喜劇などが演じられた。メランヒトンやルターもラテン語学校劇を推奨した[2]。17世紀にはコメニウスが著書『遊戯学校(Schola ludus)』(1654年)において演劇教育の有用性を主張し、近代教育のなかに位置づけた[3]。
日本においては明治40年代に余興としての学芸会が広まり[4]、1903年(明治36年)には前年にドイツから帰国した巌谷小波が子供自身が演じる「学校芝居」を提唱した[5]。1918年(大正7年)には小原國芳が子供の真善美と創造力を養う総合芸術として「学校劇」を提唱、推進し[6]、坪内逍遙による児童劇運動も普及を後押しした[4]。
学校劇と名付けた理由については、『教育とわが生涯 小原國芳』(南日本新聞社編/玉川大学出版部 1977年)に次のように記載されている[6]。
①劇は総合芸術であるが、総合されるところに、それぞれの芸術と違った第三の新しいものが生まれる。
②子供の生活の充実、真の人格を作るため。子供の生活は劇的生活が多い。それを充実させることは、やがてほんとうの人間になるための前提である。
③劇的本能の啓発。劇は子供に内存する普遍的な本能である。しかも子供は真剣だ。(略)
④だから子供の劇は、劇の革新運動を意味している。ほんものの劇を生み出すためにそれは必要である。
⑤子供に批評眼を養成し、正しい理解をなさしめ、劇を尊敬せしめるために必要。
⑥本来の目的ではないが、副産物として、修身や読み方、歴史や語学などの練習に非常な力となる。
⑦学校生活の革新のため。(略)
⑧家庭改良、社会改良となる。
1923年(大正12年)には小原の『学校劇論』が刊行されたが、翌年、文部大臣訓令により学校劇が禁止され(通称「学校劇禁止令」)、第二次世界大戦後まで活動は抑圧された[4]。そんな中でも1932年(昭和7年)に落合聡三郎、加藤光、米谷義郎らにより「学校劇研究会」が設立され[7]、1937年(昭和12年)には「日本学校劇連盟」が結成された[8]。
戦後、視聴覚教育が重視されるようになると学校劇も盛んになり、1955年(昭和30年)8月には神田の一橋国民劇場で第1回全国高等学校演劇大会が開催、以後毎年夏に全国大会がひらかれるようになった[9]。また「日本演劇教育連盟」[注釈 1]、「日本児童演劇協会」などの研究組織が生まれ、落合聡三郎、冨田博之、岡田陽といった人らが活躍した[4]。
参考資料
[編集]- 小原國芳『思想問題と教育,学校劇論』(小原國芳全集 第9巻)玉川大学出版部 1963年
関連項目
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 前身は日本学校劇連盟
出典
[編集]- ^ 学校劇とは - コトバンク(2021年2月16日閲覧)
- ^ 学校劇とは - コトバンク『世界大百科事典 第2版』平凡社(2021年2月16日閲覧)
- ^ コメニウスとは - コトバンク『世界大百科事典 第2版』平凡社(2021年2月16日閲覧)
- ^ a b c d 学校劇とは - コトバンク - 黒田耕誠「学校劇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館(2021年2月16日閲覧)
- ^ 上田真弓・上間陽子『学校の演劇 -「学校劇」 と日本の演劇史-』琉球大学教育学部紀要、2013年7月、pp.161-163(2021年2月18日閲覧)
- ^ a b “総合芸術としての「学校劇」の誕生”. 玉川学園 (2016年7月29日). 2021年2月16日閲覧。
- ^ 落合 聡三郎とは - コトバンク - 『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ、2004年刊(2021年2月17日閲覧)
- ^ 落合聡三郎とは - コトバンク - 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』講談社(2021年2月17日閲覧)
- ^ 学校劇とは - コトバンク『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』(2021年2月16日閲覧)