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孫皇后

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
孝恭章皇后から転送)
孫皇后
の皇后
孝恭章皇后孫氏
在位 宣徳3年3月1日 - 宣徳10年2月8日
1428年3月16日 - 1435年3月7日

別称 孝恭懿憲慈仁荘烈斉天配聖章皇后
出生 建文元年2月6日
1399年3月13日
済南府鄒平県
死去 天順6年9月4日
1462年9月26日
順天府紫禁城
埋葬 景陵
配偶者 宣徳帝
子女 常徳公主、英宗
父親 孫愚(会昌伯)
母親 会昌伯夫人董氏
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孫皇后(そんこうごう)は、宣徳帝の皇后。孝恭章皇后(こうきょうしょうこうごう)の諡号を贈られた。

経歴

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済南府鄒平県の人。永城従九品主簿の孫愚と董氏の娘。知的で容姿も美しかった。

永楽8年(1410年)、10代の時、太子妃張氏(後の誠孝皇后)の母の薦めで、太子(後の洪熙帝)の邸に入り、朱瞻基(後の宣徳帝)を見初め、互いに慕い合った。しかし永楽15年(1417年)、胡善祥永楽帝に召されて朱瞻基の妃(正室)となり、孫氏は嬪(側室)となった。朱瞻基は孫氏を寵愛して、胡善祥をあまり寵愛しなかった。

洪熙帝が即位すると皇太子嬪に立てられ、宣徳帝が即位すると貴妃に立てられた。宣徳3年(1428年)、男子の朱祁鎮(英宗)を産んだ[1]。胡善祥は病の上に男子がないという理由で廃されて、清寧宮に移され、代わって孫氏が皇后に立てられた。孫愚は孫忠と改名して、会昌伯に封じられた。

宣徳10年(1435年)、英宗が即位すると、皇太后となった。正統14年(1449年)、英宗が土木の変で捕虜になると、景泰帝を擁立し、上聖皇太后と改称された。

景泰8年(1457年)、大議を裁決して、幽閉されていた英宗を立てて復辟させた。 天順6年(1462年)、崩じた。孝恭懿憲慈仁荘烈斉天配聖章皇后された。

子女

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  • 常徳公主 - 薛桓に降嫁した。
  • 朱祁鎮(英宗)

伝記資料

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  • 『明宣宗実録』
  • 『明英宗実録』

脚注

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  1. ^ 外史によると、宮人の子を取って自分の子として養った。

登場作品

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テレビドラマ