コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

朝香千賀子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
孚彦王妃千賀子から転送)
朝香 千賀子
(孚彦王妃 千賀子)
朝香宮家
孚彦王と千賀子妃
続柄 藤堂高紹第5女子

全名 朝香 千賀子(あさか ちかこ)
身位 王妃 →(皇籍離脱
敬称 殿下 →(皇籍離脱)
出生 1921年5月3日
大日本帝国の旗 日本 東京府東京市本所区(現:東京都墨田区両国
藤堂伯爵邸
死去 (1952-12-06) 1952年12月6日(31歳没)
日本の旗 日本東京都
埋葬 日本の旗 日本・東京都文京区豊島岡墓地
配偶者 孚彦王
子女 鈴木冨久子(冨久子女王)
誠彦王
坂本美仍子(美仍子女王)
父親 藤堂高紹
母親 真田信子
栄典 勲二等宝冠章
テンプレートを表示

朝香 千賀子(あさか ちかこ、1921年大正10年〉5月3日 - 1952年昭和27年〉12月6日)は、日本旧皇族。元華族朝香宮鳩彦王の第1王子・孚彦王の妃。旧名は、藤堂 千賀子(とうどう ちかこ)。父は、伯爵藤堂高紹。母は、真田幸民伯爵令嬢・信子。皇籍離脱前の身位王妃で、皇室典範における敬称殿下皇族時代の名は、孚彦王妃 千賀子(たかひこおうひ ちかこ)であった。

略歴

[編集]

1938年昭和13年)12月16日朝香宮鳩彦王の長男・孚彦王と結婚[1]。その後、冨久子女王、誠彦王、美仍子女王の1男2女をもうける。1947年(昭和22年)10月14日皇室典範第11条1項により夫・孚彦王や家族と共に皇籍を離脱し、以後は「朝香 千賀子(あさか ちかこ)」と名乗る。晩年は結核に倒れ、1950年(昭和25年)に自らの結核の快癒を願ってカルメル会に入りカトリック信者となったが、1952年(昭和27年)12月16日、31歳で亡くなった。1953年5月、夫・孚彦が『紅ばらのかをり』を追悼出版[2]

著作

[編集]

栄典

[編集]

血縁

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 『親王・諸王略傳』 孚[孚彦]”. nss.o.oo7.jp. 2023年1月5日閲覧。
  2. ^ 資料検索 - 南山大学 蔵書検索 (OPAC)”. 南山大学ライネルス中央図書館. 2024年4月2日閲覧。
  3. ^ 『官報』第3587号、「叙任及辞令」1938年12月17日。p.555
  4. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  5. ^ 戦後、1947年(昭和22年)父に従い皇籍離脱。朝香冨久子となり、女子美術大学に学ぶ。皇太子妃の候補ともなった。旧盛岡藩主南部家の南部利久に嫁いで離婚。のち、日清製粉に勤務する一般人と再婚し、二児を儲けた。また、SF同人誌宇宙塵』に参加し、ペンネーム「美苑ふう」(ディエンビエンフーの戦いに由来)あるいは「南部ふう」名義で小説を発表した(『日本SF・原点への招待「宇宙塵」傑作選2』講談社に収録)。同誌には「朝香冨久子」「南部冨久子」名義でカットを発表したこともある。2009年2月19日、心不全により67歳で死去。(『週刊新潮』2009年4月2日号より)
  6. ^ a b 「FRIDAY」1989年1月26日増刊号p36-37
  7. ^ 朝香家(朝香明彦・朝香宮鳩彦王の家系図)”. 閨閥学 (2019年12月7日). 2023年1月5日閲覧。
  8. ^ あさか・ともひこ。東京藝術大学音楽学部チェロを専攻した後、CBSソニーに勤務。東京都庭園美術館館長特別顧問を務める。
  9. ^ 岐阜県武儀郡美濃町で誕生したことから「みのこ」と名付けられる。のち日新製糖勤務の一般人と結婚し、三児を儲ける。
  10. ^ 『官報』第5667号、「宮内省告示」1945年12月1日。8頁