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孔鮒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

孔 鮒(こう ふ)は、代の学者。、あるいは子魚孔子の子孫で、陳勝の博士であった。『孔叢子』の著者と伝えられる。

概要

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史記』孔子世家によると、孔鮒は孔子の八世の孫で、父の孔子慎(子慎は字、名は『漢書孔光伝によると順、『漢紀孝成皇帝紀では斌)はであった。孔鮒は陳勝の博士で、享年57歳だった[1]

『漢書』儒林伝では孔甲が陳勝の博士になったと記している。顔師古注によると甲は孔鮒の字だろうという[2]。『史記』儒林列伝の徐広注も同様である[3]

『漢書』芸文志の顔師古注では、秦の焚書にあたって孔子の旧家の壁中に尚書を隠した人物を『孔子家語』では孔騰(孔鮒の弟、字は子襄)とするが、『東観漢記』尹敏伝では孔鮒が隠したと書いているという[4]

『孔叢子』は孔子および孔鮒を含む子孫の言行を記した書物で、孔鮒の著と伝えられるが、実際には期の偽作とされる。その独治篇では鮒甲を名、子魚を字とし、陳の人は子鮒とも孔甲とも言ったとする[5]。また張耳陳余と交流があり、陳余に招かれて陳勝に仕えた。陳勝は孔鮒を博士・太師としたとする。

脚注

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  1. ^ 『史記』孔子世家「孔子生、字伯魚。……伯魚生伋、字子思。……子思生白、字子上。……子上生求、字子家。……子家生箕、字子京。……子京生穿、字子高。……子高生子慎、年五十七、嘗為魏相。子慎生鮒、年五十七、為陳王渉博士、死於陳下。」
  2. ^ 漢書儒林伝https://ctext.org/library.pl?file=79551&page=6 「陳渉之王也、魯諸儒持孔氏礼器、往帰之。於是孔甲為渉博士、卒与倶死」注「師古曰:孔光伝云鮒為陳渉博士、死陳下。今此云孔甲、将名鮒而字甲也。」
  3. ^ 『史記』儒林列伝「陳渉之王也而魯諸儒持孔氏之礼器、往帰陳王。於是孔甲為渉博士、卒与倶死」注「徐広曰:孔子八世孫、名鮒、字甲也。」
  4. ^ 漢書芸文志・書https://ctext.org/library.pl?file=79537&page=51 「古文尚書者、出孔子壁中。」注「師古曰:『家語』云孔騰、字子襄、畏秦法峻急、蔵尚書・孝経・論語於夫子旧堂壁中。而『漢記』尹敏伝云孔鮒所蔵。二説不同、未知孰是。」
  5. ^ 『孔叢子』独治第十七「子魚名鮒甲。陳人或謂之子鮒、或稱孔甲。」